夜行人間

 終電に乗りながらこれを書いている。たまにこういうことがある。終電に乗って、ということを書いておきたい、未来の自分のために。腕が壁に当たって冷たい、ということは、別に書かなくてもいい、しかし、眠いということや、慌ただしく会社を飛び出してきたことや、これから姉の家に向かうことについては、やはり書いておくべきだろう。ぼくは、同年代の中でもかなり家族思いの、情に厚い人間だと思う。姉や母のことをいつも気にかけている。家族に対する愛が深い。もちろん父への愛も深いけれど、父は死んだからその愛はもう行き場を失っている。行き場を失った愛というのはいかにも膿だ。根本的に人間が好きなんだと思う。性善説でも性悪説でもなく単純な好き、嫌いだ。ぼくは動物が好きだ。そして人間はもちろん動物だ。比喩でも言い回しでもなく、人間は2023年でも全然全く動物で、ほんとに全然、まだまだしょうもない生き物だ。江戸時代から全く進歩していないというか、本質的にはまったく大したことをしていない。携帯電話やインターネットや新幹線を手にして、何か動物とは違う風にしてるけど、はじめて馬を飼育した人に比べると、その前進の小ささにぼくはいささか震える。ぼくのこの視点は、子供のぼくとの対比であり、つまり子供のぼくは、この世界がとても優れていて便利で進歩していて、江戸時代よりとてもいいものだと思っていた。しかし大人になるにつれて、世の中がどんどん狭くなってくる。ぼくはもう日本のほとんどを訪れたことがあるし、それは子供のぼくには想像さえできなかったことだけど、いざ日本を歩き回ってみれば、実に見事に大したことがない。田舎はどこも似たように田舎だし、東京以上の都市はどこにもない。その東京でさえ、バイクで3時間も走れば易々と横断出来てしまうほど狭い。とても狭い。そしてぼくの視点はいま、めちゃくちゃ広い。距離的にも時間的にも広い。この視点のせいで、クリア済みのダンジョンにまた潜らなくてはいけないような面倒臭さを生きるのに感じている。過去のわくわくはもうない。構造の変わる不思議のダンジョンも、とっくにパターン化されて眠い。だからこそ、より鮮明に閃光を伴ってぼくたちの眼前でフィクションは輝いている。経験や体験に裏打ちされた、対比され彫琢された希望、であり実利的精神的養分がフィクションだ。フィクションは無限。フィクションとは内的宇宙。サザエさんでさえ宇宙。物語やゲーム、小説、映画、それらだっていうほど進化はしていないに違いないが、それでもベースが想像力である以上、有限が武器である現実に比べて明らかに無限だ。ぼくは昨日、RDR2について、中学生の頃にプレイしていたら人生がきゃわるかもしんない、と書いたが、よく言われることではあるが、今、この経験と時を過ごしてきたがゆえに、今、だからこそRDR2がヘブンだってこと、あるきゃもしんない。つまり、ぼくは昔は砂漠ではなかった。しかし今は砂漠なのだ。砂漠が好きで、砂漠的なものになった。しかし砂漠を積極的に肯定する者ではない。オアシスは必要だ。

 今日は非常にのんびりと仕事をした。大してボリュームがあるわけでもないし、時間的に余裕がないわけでもない。ただやり慣れていない仕事をした。新人の女の子は一言も喋らず、身じろぎもせず、支給されたばかりのノートパソコンに向かい続けた。今日の上司はお気楽で、なんだかよくサボっている感じだった。煙草の甘いにおいがしている。ぼくは自分のpcモニタを見つめながら、これからどうやって生きようかな、と考えた。そういうぼんやりした考え方をぼくはよくした。これからどうやって生きようかなとか、命が薄いなとか。命が薄い、はぼくの心の声の口癖でもある。さて、姉の住む街についた。もう深夜で目がしゃぼしょぼする。今日は誕生日パーティーだ。