ゴリラ

 ゆで卵を作ろうと思い冷蔵庫の卵をつまんだ瞬間割れた。
 ぼくはゴリラだ。鍛えすぎていつの間にか握力が500kgになったに違いない。
 割れた卵をどうしたらよいものかわたわたしたのち、とりあえず他の卵を五個つかんでお湯が沸いている鍋の中に入れようと思ったはずみに卵をひとつ落とした。卵はフローリングで割れた。
 ぼくはゴリラだ。不器用なゴリラだ! ぼくは両胸に卵を叩きつけて割った。それからオホッオホッウホホーーッ! と雄たけびをあげ、玄関の鍵を開けて外に飛び出した。
 それからsotokuroの姿を見たものはいない。

 今日も踏み台昇降をし、ぬるま湯に30分浸かりつつ、スマホゲーのデイリーを消化し、あっさりした夕食を召して、今はようやく一息ついているところである。今日も一日とても最高であった。特に何か面白いことがあったわけではないけれど、最高という言葉で感情に迷彩をかけることで思考を誘導している。ある意味では認知行動療法的である。自分の思考というものは心臓の鼓動とは違い、どちらかというと呼吸と同じように操作可能なものである。ぼくは上手く呼吸できるようになろうと思う。
 
 昼食はステーキだった。
 ぼくはいっつもステーキかラーメンを食べている。小学生の夢みたいな毎日かもしれない。
 チェーンのステーキ店で、地下にある。あまり書きたくはないが不衛生な感じの店で、テーブルはどこもかしこもべたべたしているし、壁も油で変色しているし、椅子もなんだかぼろぼろだし、床もべたべたするし、しかも虫が多い。
 一度サラダの皿の下から黒いゲンゴロウみたいな虫が出てきたことがあるし、コバエも飛んでいるし、堂々とイニシャルGが歩いていたこともあるし、いかにも不潔である。
 店員さんの8割は海外の方で、接客は絵に描いたような適当。ライスのおかわりを頼もうと思って手を上げると、それを見た店員さんは何も言わずに厨房に引っ込んだ。その5秒後に何も言わずにライスを持ってきたことがある。どうせおかわりでしょ! という感じです。この「何も言わなさ、そっけなさ」が大陸の鷹揚さなのかもしれない。光の差さない地下の、うすらぼんやりした照明の下で毎日働いていたら、自然とそのような人間になっていくものかもしれない。
 ぼくはそのステーキ店によく行く。会社の周りでたんぱく質が多く摂れる飯屋がそこしかないからだ。ハンバーグはちょっと変な味がするから、たぶん変な肉のハンバーグなんだろうなと思っている。カットステーキは焼きすぎて縮んでいる。チキンステーキは固くてぱさぱさしている。水は水道水の味だ。
 SFだなあとぼくは思う。
 この世界はとっくに核戦争で滅んでいて、この店は「人造肉じゃない本物の肉」を出す最後の店なのだ。だから多少変な味だったり、不潔だったりしても仕方ないと思う。汚染されていない本物の肉はとても貴重なのだ。なんの肉かはわからないけど。
 
 今日はとても久しぶりに退社後に書店に寄った。文化的な雑誌の新しいのが出ていたら買おうかなと思っていたのだった。ぼくは本を読むのが得意ではない。買っても半年くらい読まないことさえある。この間やっと『三体』という中国SFの一巻を読み終わったが、たぶん8ヵ月くらい読んでいたと思う。読むのが遅いし、読み終わると忘れてしまう。雑誌を読むのも1週間はかかるだろう。
 書店に欲しい雑誌はなかった。それはそれでいいだろうと思った。書店を出た。
 二駅歩いて帰った。ようやく夏が去り、歩くのにちょうどいい気温になっている。
 バス停の奥の茂みで、鈴虫が鳴いている。
 今日は家に帰ったら、ゆで卵でも作ろうかなと思った。