ミジンコは、恐怖を感じると頭がとがるらしい。
とがったところであまり役には立たないみたいだ。
しかし、とがるのだという。
知らなかった。
かわいいなと思った。一体何をしているんだ、と思った。そんなの意味無いよ、と思った。
しかし、ミジンコにとってはたぶん意味があるのだろう。
だから種としてのミジンコが発生した当初からずっと頭をとがらせてきたんだろう。
あるいは、一回くらいは頭を凹ませてみたこともあったかもしれない。
凹ませてみて、「うーん、やっぱりなんか違うな」と思い、もう一度とがらせてみたり、したのかもしれない。
かわいいなと思った。
ぼくも自由に頭をとがらせることができたらうれしいと思う。
なんだかおもしろいと思う。
頭がとがっている人間がいたら、かわいいと思う。
ようやく読書の心が戻ってきた。
ずいぶん時間がかかった。一年以上かかったかもしれない。ずっと本を読む気持ちにならなかった。それは波のようなもので、ぼくはなるべく波に抗わないようにしている。なるべく自然であるようにしている。本が読みたくなければ、読まなければいい。映画がみたいかもしれないし、ゲームがしたいかもしれない、その時にやりたいことをやればいい。どうせいつかまた本を読んだり、文章を書いたりしたいタイミングが来るとわかっている。あせらない。
大事なのは、自分がしたいと思うこと、したくないと思うことを、きちんと受け止めることだと思う。ぼくが今やりたいことは何なのかを、きちんと自らに問うことだと思う。〇〇をすると決めたからやる、という風なルールで縛ると、やりたい気持ちはとても早く無くなる。心くらい、犬のように自由にさせておいたほうがいい。
すこしずつ本を読んでいる。読みたい本をぱらりらと読んでいる。どの本もとても面白い。
今日は特殊な任務を帯びていて、一日中電話をかけ続けていた。20分に一度は電話をしたので、すっかり疲れてしまった。電話はいつまで経っても慣れないものだ。相手に伝わるように話すことをまとめたり、必要情報を整理したり、頭の中でシミュレーションをしたり、また相手方がどのような反応をするのか予測してみたり、いそがしい。ぼくはいい大人だが、アヤシイ敬語しか使えないことも、ややストレスである。といっても、無暗に正しい敬語を使うことが正解であるとも思っていない。相手によってはぞんざいな口調だったり、とてもフレンドリーだったり、しとやかだけれどくだけていたり、固く緊張していたり、色々だからだ。ぼくは相手の声の感じで、人物像を想像するのが好きだ。その頭の中の人物像に合わせて、話し方を少し変える。フレンドリーな人にはフレンドリーに、生真面目な人には丁寧に、やさしいおだやかな人にはのんびりと牛のように、話し方の百面相をしているようである。ぼくがなぜそのように話し方を変えるのかというと、結局、そういう風に、相手の世界観の上で会話をするのが、もっとも伝わりやすいと思っているからだ。真面目そうな人にフレンドリーに話しかけても、おそらく気分を害するだけだろうし、フレンドリーな人に丁寧に話しても、話が長いと思われるだけだと思うのだ。こういうことを考えているから、ぼくはすっかり疲れてしまうものである。ぼくの異名は『助手席のキャバ嬢』。さあ、どうぞ話してください。あなたは何者ですか?
30分きっかりの踏み台昇降と、30分きっかりのぬるい入浴を済ませる。
どちらもタイマーを使って正確に時間を計っている。
この二つの小さな日課のおかげで、ぼくは一日が無駄ではないと思える。