笑いと宇宙

 明日がようやく休日なので精神がふわついている。
 まことに遺憾なことである。休日というだけで乱れてしまうほどの脆弱な精神よ。
 やりたいことはたくさんあるのにyoutubeを見てしまう。ノブロックTVを見てしまう。とても面白い。トータルテンボスさんの100ボケ100ツッコミを何回か見た。芸人というものはすさまじいものだと思う。どんな状況からでも面白い言葉が生まれてくる。面白い言葉というものは非常に繊細であり、ひとつのアートのようなものだった。ぼくは面白いものが好きだ。言葉が好きだ。嫌いな言葉もある。嫌いな言葉をあえて使うこともある。芸人さんは言葉を自由自在に操る。ひとつのゴールに向けて言葉を組み合わせる。間違えて使うことは許されない。もしひとつでも面白くない言葉を交えてしまえば、もう笑うことはできないからだ。一見ノイズに聞こえるような言葉が徐々に心を緩ませる。相槌ひとつとっても完璧に配置されなければならない。それは休符のようでさえある。お笑いは芸人さんの奏でるうつくしい音楽だ。力強いリズムもあれば不可解なリズムもある。表情や身振り手振りも雰囲気に沿っていなければならない。お笑いとは芝居である。そこにはシナリオがあり、アドリブがある。演出がある。涙があり、怒りがあり、笑いがある。ぼくは人を笑わせるのが好きだ。なぜならぼくは笑うのが好きだからだ。今日、ぼくは人を何回笑わせただろうか。
 たしかにはっきりと一回だけ笑わせられた。ぼくは今日いらなくなったプリントを裁断していた。A4のプリントを四等分してみんなが使うメモ紙を作成していたのだ。メモ紙屋さんごっこをしてひとりで遊んでいたのだ。不要になったプリントは厚さが20センチほどあった。それを全て四等分し終わるのに40分程かかった。四等分した紙を積み上げると、単純計算で80センチほどになる。それをかかえて同僚のOさんに見せながら、
「ほらOさん、一年分のメモが出来たよ。好きなだけ取りなさい」と言った。
 Oさんはしばらく笑っていた。特に何を言うでもなく、ぼくが抱えているものを見てなんだか嬉しそうに笑っていた。
 
 Vtuberの戌神ころねがスターフィールドの配信をしている。ぼくは頭を抱えた。見るべきか、見ざるべきか、それが問題だ。ころね、お前もか。という気持ちもある。とても困る。戌神ころねは、いわゆる推しである。ガチ恋でもないしメンバーシップにも入っていないぬるういファンではあるにせよ、少しくらいはグッズも持っているし、何よりぼくは戌神ころねと会話をしたことがあるというところが、ほんのちょっと誇りでもある。戌神ころねはホロライブ事務所のゲーマーズ所属なのでゲーム配信をメインでやるのだけれど、ゲームの選択がとても渋いのでぼくは好きだ。MOTHERシリーズもやっている。しかしぼくはころねのMOTHERシリーズを、実はきちんと見ていない。ぼくはMOTHERが好きすぎる。耐えられない。ころねがもし、MOTHERシリーズの感性やセンスをすこしでも小ばかにしたような態度を取ったら、ぼくはころねを許せなくなる。許せないというのとは、すこし違うか、きっとその感情は怒りでもない、悲しみでもない、たぶんとてもがっかりする。だからぼくはころねが知らないゲームをやっている時にしか、彼女の配信を見ていないような気がする。そして今回はスターフィールドだ。この間ぼくがクリアしたばかりの星を巡る冒険SFだ。ぼくはこのゲームの情報を今、どんな形であれ摂取したくないと思っている。とてもスターフィールドが好きだからだ。ころねは時々口が滑ってゲームを馬鹿にしたようなギャグを飛ばすが、むろんそれは邪気のない笑いなのではあるが、そういう軽口を見られるような精神状態ではない今、ぼくは彼女のスターフィールド配信を、やはり見られないでいる。見たいような、見たくないような、ずっとそんな気持ちでいる。たぶん、きっと、これからも見ないんだろうと思う。それでいいと思う。ぼくにはぼくの宇宙がある。それを開放しなくてはいけない理由なんて、どこにも存在しない。