秋が終わって冬

 思慮深い秋が音もなく去る。
 ほとんどの時間をベッドの上で過ごした。毛糸のズボンを二枚重ねて履き、Tシャツと半袖のサマーパジャマと冬用の分厚いパジャマを重ね着していた。それなら部屋の温度が10℃を切っても耐えられる。深夜になり、更に気温が低くなると、ベッドに寝転がり毛布と布団を体にかける。まだ一度も暖房を使っていない。これからもっと寒さが厳しくなれば使うことになるだろう。毛布に包まり、本を読む。部屋を満たしていた思慮深い秋の空気は既に、思考を奪う虚無的な寒さに変わりつつある。布団の中で本を読んでいると眠気がやってくる。激しい勢いと量を伴った眠気だ。それは津波のように押し寄せ、意識を削り取っていく。言葉が理解できなくなっていく。目は文章を捉え、視線は慣性に従ってページを流れていくけれど、内容を脳が処理していない。脳が処理をしていない、ということを認知するためにはわずかに時間がかかる。激しい勢いと量を伴った眠気は、あまりに素早く意識を押し流してしまうため、自己認識と認知の間に乖離が生じる。その時私は、現実でも物語でもない、奇妙な世界に存在していることに気がつく。私は目で文章を追いながら、その文章とは全く関係のない物語を読んでいることがある。現実の私は自宅のベッドの上で読書をおこなっており、物語の中の主人公=語り部は図書館で仕事をしている、という内容にもかかわらず、制御と統合を失った奔放な脳は、雪原に立っているひとりの青年の物語を読んでいる。その時、私は静かに混乱している。どの自分が“文脈的に正しいか”が分からないからだ。ベッドに寝ている私だろうか、物語の中の感情や感覚を共有すべく努めていた語り部だろうか、それとも眠気でバグを生じた脳が勝手に作り出した夢うつつの物語にだろうか、どれが正しいのだろう? その状態に陥るとどれだけ頑張ってみても夢うつつの意味不明な物語しか読み取ることができないということを長い時間をかけて知った私はおとなしく寝ることにしている。その眠りが10分になるのか、はたまた1時間になるのか、それは神の思し召しであり時の運だ。時間をロスするリスクがあり、その危機意識は常に無意識化に存在しているように思われる。しかしながら、眠らないことには一歩も前に進めない、という状況になることは多々あり、そのある種の生活習慣(眠りながら本を読んでしまうこと)が現在の私を作り上げていた。
 最近はゲームも少しやっている。
 アーマードコア6はスターフィールド発売と同時に、ストップしている。そのうち手をつけようと思いながら長い時間が過ぎている。スターフィールドは一応のエンディングを見て満足している。会社の同僚の勧めでシロナガス島への帰還をプレイし、クリアした。懐かしい感じのミステリーアドベンチャーゲームで、イラストがいかにも同人という感じでなんだかひぐらしを彷彿とさせた。続いてパラノマサイトをクリアした。まっとうなノベルゲームで、やや子供だまし感があったもののシナリオもゲーム性も面白かった。ノベル系がマイブームになりつつある波動を感じたため428~封鎖された渋谷で~をsteamのセールで購入。ずっと昔に姉がハマっていたことを懐かしく思い出す。感情を奮わせるための道具としてFPSが必要なのではないか、という仮説を実証するためCODのwarzoneを無料でインストールしてDMZで遊んでいる。バトルフィールドに比べるとやはりスポーツの側面が強く、レベルが物凄く高いプレイヤー達に一方的にやられてしまうゲーム展開が非常に多いため、ゲームを始めた当初は予想通りイライラさせられ、人類に対する憎悪が増長してきたけれど、ある時を境にやられたりやったりの繰り返しに慣れてしまい、心が空になっていき、ただ武器のレベルを上げるためだけにゲームを開始するようになり、ゲームで勝つとか負けるとかを超越してしまったところがあり、それはそれで不健康というのか、そういう心の動きになってしまったら、ある意味ではこのゲームはもう終わりなのではないかと考えている。今年はもう楽しみなゲームもないので、しばらくはゲーム時間が減少しそうだ。
 
 会社の後輩の誕生日会をした。品川でシュラスコを御馳走し、それから水族館へ行った。動物園と比べると水族館は罪悪感が少ない。なぜなのか考えてみると、魚の思考能力がとても低そうだからだ。つまり魚は水槽の中に入れておいても、自分が“捕らわれている”という感覚が無さそうに見えるからだ。幸福そうにも見えないし、弱肉強食の輪から外れることが魚にとって善きことであるとも思わないけれど、かといって不幸にも見えない。なんにも考えていなそうに見える。実際にどう思っているのかは魚に聞いて見なければわからないけれど、タツノオトシゴはふよふよと水の中を漂っており、なんの意思も表明しない。
 
 先輩二人と飲み会をした。そこで久しぶりに朝まで酒を飲むことになった。私はそこでもう何度目かの悟りを得た。やはり人間の集団に向いていない。馴染めないし、馴染みたいとも思わない。忌避してしまう。結局、私はとても不器用だし、対人関係が下手だ、と再認識している。決定的な契機があったわけでもないし、誰かに面と向かって批判されたとか、そういうことではないんだけれど、ある集団に囲まれると、私はそのコミュニティーを生理的に嫌悪する癖がある、とわかった。家でひとりで読書をしたり、ゲームをしたり、あるいはハエトリグモを観察したり、様々なことに思いをめぐらせたり、そういうことが好きだ。魚は空を飛ばない。感覚としてそれを理解したので、これからはより一層引きこもることにしようと決心している。