風邪をひいて

 喉がいがいがして腫れており、一定時間が経つと唾が呑み込めなくて涙が出てくる。しかし熱・鼻水・咳・関節痛などの諸症状が無く、まったく風邪っぽくは無いので、胸を張って風邪をひいたと言えない。だが私は風邪をひいている。私にしか分からない風邪の波動を感じている。このままスルーすると悪化する。こういう時は省エネモードに入る。私は臨戦態勢に移行する。小さな戦争が始まる。ここに、目には見えない強烈な悪意を持った生物がおり、それは私を殺そうとしている。私はまだ、死ぬわけにはいかない。小さな生物を、私が殺す。一匹も残さず、一細胞も残さず、駆逐しなければならない。私の殺意は銃や、ナイフや、ミサイルのような形ではない。私の攻撃の手段は、私の健康。私の幸福。私の休息によって、私は悪意と戦う。私は気怠くなってきた体を用い、ポカリスエットを1.5リットル買う。うがい薬を買う。サラミを買う。私は私が幸福になるための準備を怠らない。弱っている時には、今までにないほど贅沢をすることにしている。気を抜くと人は死んでしまうからだ。これが最後の晩餐になっても後悔しないほど、私は私をもてなす。私は私を許す。私は私が生きたいと思える環境を構築する。私はおいしいものを食べる。食べられるだけ食べたいものを食べる。食べられるということはただそれだけで幸福なことなのだと私は知っている。本当に具合が悪いと食べることさえ出来なくなる。風邪薬を飲む。ビタミン剤を飲む。睡眠薬を飲む。野菜ジュースを飲む。養命酒を飲む。ウィダーインゼリーを飲む。私は私の健康と幸福を乱射している。風邪とは徹底抗戦を誓っている。帰宅してシャワーを浴びるとすぐに布団に入り眠る。体を暖める。甘やかす。眠るだけ眠る。ポカリスエットを1.5リットル飲み干す。私の体がより高密度の栄養素とより質の高い休息を求めている。戦い続けるために。私はそれに応える。私の意思で応える。私は休息によって戦っている。すべての毎日がそうであったように。私は戦士になる。ほのかな具合の悪さを感じながら布団の中で私は静かに幸福を感じていた。私はたぶん、病弱を経て風邪との戦いに、むしろ平穏を見出すようになったのだろう。悲しい戦士だった。子供の頃からずっと風邪をひいていた。季節の変わり目には必ず一度は寝込んだ。インフルエンザも何度も経験した。私は誰にも見えない戦場で戦い続け、そして戦場にいることが普通になってしまった。私はどこへも行くことができない苦しみの布団の中にいる時、そこにとてもシンプルな強い思想を感じる。私の唯一の任務は生き残ること。ただそれだけだった。生きていればいい。なんて簡単でシンプルで肯定的な場所なんだろう。何も考えなくていい。何も迷わなくていい。選ばなくていい。ここにいる時、私は私の一切の自由を放棄する代わりに、生の実感を得る。私の故郷は戦場だ。高熱に浮かされた脳が垣間見る悪夢が私の希望だ。ただ生きていればいい、と私は私に命じる。苦痛さえ人は求めるものであるか。もしかしたら、私を殺そうとしているウイルスも、そのようなものであるのかもしれない。ただ生きていたかったのかもしれない。そうであればいいと思う。おまえも、私も、ここではいつも純粋だ。