うろうろ

 鳥からは粉が出る。まるで煙のように。陽の光に照らされると立ち昇っているのがわかる。鳥にはトイレの概念がない。だから鳥はそこら中に糞をする。鳥と暮らすというのは結局、そういう事に慣れるということ。それは人間にも同じことが言える。何者かと暮らすということは、そういう全てに慣れるということ。愛し合っている者達が、愛ゆえに同じ場所に住むわけではないと思う。愛というのは、最低限の条件であり、愛しているくらいでなければ一緒に生活できないから、結婚という制度があるのかなと思います。狭い部屋に人間達を入れておくと最後には殺し合いになるそうだけれど、抑止力としての愛があれば殺し合わなくて済むわけで、愛はロマンチックなものではなく、しごく実用的です。鳥が糞を撒き散らしても殺されないのは、愛されているから。愛が無くなれば、全ては殺し合いです。なんじのりんじんを愛し、なんじの鳥を愛せよ、みたいなことを考えながら、私はトイレの掃除をしていました。

 ブレインストーミングをしたことがない、という人が思いのほか多くいる事に驚いているところですが、ビジネスシーンにおいてもブレインストーミングをしたことがない、というのは案外あり得る事なのかもしれず、それだからブレインストーミングのルールさえ知らないという人が少なからずいるようで、Oさんも知りませんでしたが、それはお昼下がりの職場での会話で、Oさんはいつものように熱心にネットサーフィンをして遊んでいたので聞いてみると「私はそれをやった事ないですけど、友人と熱心に下らない議題について討論するのがとても好きでした。たとえば、最も素晴らしいおにぎりの具は何か、とか。そういうのを真剣に話し合うの、すごく楽しいんです」わかる気がした。この人も、無意味さを楽しめる人だと思った。案外、そういうことを楽しめる人は多いのかも、と一瞬思ったけれど、今まで生きてきて概念を楽しめる人がいかに少ないかを思い知らされてきた身としてはやはり、稀有な才能であると言わざるを得ない。「討論の場では、外黒さんが言うブレインストーミングのように、相手の意見を頭ごなしに否定するようなことはしませんでした。だって私達の間では、いきなり否定から入る人なんて馬鹿だと思っていましたから」そういう場があったことを羨ましく思うと共に、むしろ全ての会話の基礎であることだな、とも思いました。会話の当然のルール、小学生の頃に学ぶべきであったやり方。相手を否定するのは、その基礎ができてからの応用編であり、ある程度の関係性を構築してからのお話でありましょう、ということを、私は中学生の頃に学びましたが、40、50になっても否定から会話に入る方々のおそらく所属していた文化の事を考えますと、多様性という言葉に私の行動は多くを依っているような気さえして、つい口をつぐんでしまいます。正しさは盤石ではなく変遷いたします。

 静かな職場でカップラーメンを食べました。合成された人工的な食物の代表のような麺とスープの人工的な幸福で出来ているうごく水たまりの私。自然には物語がなく、ただ即物的な一瞬の幸福と持続的な苦痛が生きている証のようでしたから、物語を見出すことの人工的な生活は、人間達の紡ぐ、一見ランダムな行動の交錯をしばらく見つめていたいと思いました。