長いつぶやき

 好きなこと・ものってないんだよな。あるんだけど。
 他者と比較すると、激重な感情が発生する好きの対象って無いよな。
 あるかと言われると無い。他人に宣言できるほど好きなものは無い。あるかって言われることがまず無い。
 無いってことは無くても生きていけるってことだから、無くてもいいんだろうな。
 あるいは比較する他者が目立ち過ぎているというのか、ひときわ光を放っている人って比較対象にしやすいんだろうな。でも案外たくさんの人が、好きなものないな、って思っているんだろうと思う。なんとなく。それでいいよな、とも思うし、好きなものはあった方がいいよな、とも思う。
 依存とかどうとかではなく。というか、依存でもいいのか。依存でもいいと思う。依存してはいけない理由ってなんなんだろう。依存という言葉を悪く使い過ぎているんじゃないかな。アルコールとか薬物に依存するのが良くないのは体を壊したり精神を壊したり人間関係を壊したりするからだ、ということは分かるし、その依存は良くない。ギャンブルの依存も同様に良くないし、特定の個人に依存するのも良くない。それはもちろん分かる。やめたくてもやめられない、が依存の定義なら、すごく好き、とどう違うんだろう。たとえばサッカーが好きな少年がいたとして、学校にも行かず一日中ボールを蹴っていて、将来はサッカー選手になりたいんだ! って、言っているとして、その少年はサッカー依存症ということになるんだろうか。言葉の定義から言えば、なるんだろうな。実際、そんな少年は異常だしな。親も教師も怒るだろうし止めるだろうし。でもその依存は本当に良くない依存なのかな。あ、考えていたら分かった。依存というのは病気の一種なのか。
 病気というのは苦痛が発生したり、生活に支障をきたす症状がある心身の状態のことだから(苦痛が発生しない病気は病気ではない)、依存は風邪と同じように病気の名称なんだ。だから依存の定義は「やめたくてもやめられない」であって、根本的に依存症の人は「やめたい」と感じていることが前提なんだ。やめたい、と感じていない依存症はない、と言い換えてもいいんだ。サッカー少年がサッカーをやり続けたい! と願ってサッカーをしている場合、依存ではない。サッカーをやりたいから。サッカー少年がサッカーを「やめたいのにやめられない」と感じた時、その時にこそ依存となるわけか。やめたいという意思を実行できないことがつまり苦痛なんだ。つまり病気なんだ。依存とは病気の一種なんだ。とても大事なことだこれ。全世界に向けて発信したい。依存という言葉に勝手に怯えている場合じゃない。やりたいことがあったら思う存分やれ! やめたいと思ったらやめろ! って当たり前のことを叫ぶ当たり前おじさんになろう。依存傾向が強いという言葉も少し考えて使った方がいいよな。さもなければ「純粋な好き」を依存と勘違いして捨ててしまうかもしれない。好きな気持ちは貴重なので無駄にしないほうがいいよな。健康なサッカー少年はそのままの方がいい。
 という風に考えてみると私には依存がひとつもない。と同時にやっぱり「好き」もあんまり無いんだなと芋づる式に発見される虚無。なくても生きていけることはたしかだけれど、そのままでは何故生きているのかわからなくなるのもたしかだ。なぜ人は生きるのか、知らん。私は知らん。けどそれぞれの幸福を追及するためなんだろうなあとぼんやり考えている。幸福というのは心が満ち足りているという定義で。いつでも心が満ち足りているような状態を目指すのがつまり幸福の追及なわけで、より高強度な幸福状態になるために、より持続的な幸福状態を作り出すために、人間は生きているんだとシンプルな考えだけど。ところで幸福って言葉はすごくキモいよな。キモいけどほかに言葉を思いつかないので便宜的に使用するしかないのがすごい嫌なんだけど仕方ない。幸福でいるためには、まず幸福を認識するところから始めなくてはならず、認識できなければ言語化もできず、言語化できなければ概念化することも出来ないので再現性に乏しく、持続可能な幸福を得ることが難しくなるので、まず何はともあれ幸福の認知・認識能力を養う訓練を、たぶん誰しもが勝手に自己流で編み出していると思うんだよな。あるいは教育や環境によって幸福という状態の認知・認識は「与えられるもの」なのかもしれないな。親が「おいしいね」と言いながら笑って果物を食べさせてくれた、みたいな感じで。おいしいという味覚と、それがうれしいという感情とが上手く結びついて、結びついたことを学習して、そしておいしいものを食べるとうれしくて幸福だという感受性が思考に刻み込まれる。逆に、親が「おいしいね」と言いながら涙を流して果物を食べさせてくれたらどうだろう。たぶん果物を食べるたびに悲しい気持ちになる子供が誕生する。おいしいという味覚とかなしいという感情がセットになってしまうと、そこに幸福は生まれない。おいしいものを食べただけでは、幸福にはなれない。おいしいものとポジティブ感情が結びついてる必要がある。だから結局、何をしていても幸福だと感じられるような教育・環境を自らが自らに施す、そのような訓練が必要なわけであり、なんでもかんでも楽しいと思ってみればいいし、うれしいと思ってみればいいし、それを言葉にしてみればいいし、という結末も幾分自己啓発でキモすぎるところではあるが、幸福って言葉がだぁいすき! っていう人間にはなりたくない。

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