厳しい訓練を経て

 第一空挺団の訓練の動画を見た。
 ハイパーレスキュー隊の訓練の動画を見た。
 消防隊の訓練の動画を見た。
 女性の戦闘機パイロットの動画を見た。
 みんな厳しい訓練をしていた。
 
 私は厳しい訓練の映像を見るのがとても好きだ。
 なぜ好きなのか考えてみると、訓練の、というよりも厳しい現場を感じるのが好きらしかった。
 なぜ厳しい現場を感じるのが好きかというと、そこにはシンプルな価値観があるからだ。
 シンプルな価値観がなければ厳しい訓練なんか誰もやらない。
(厳しい訓練)+(頑張ってクリアする)=今より優れた自分になる。
 すごくシンプルだ。このシンプルさを誰しもがほとんど無条件に信じている。
 その集団的幻想(ここでは悪い意味ではなく)も、シンプルで好きだ。
 そしてこのシンプルな価値観から生まれるシンプルな手段、つまり厳しい訓練は、割とシンプルに真実だった。
 誰だって厳しい訓練を頑張ってクリアすれば今より優れた自分になれるのだ。
 程度の差はあるにせよ、少なくとも厳しい訓練前よりは何か身に着けることだろう。
 厳しい訓練に頑張って立ち向かったけれどクリアできなかった、という人ももちろんいるけれど、その人の頑張りが無駄だったとは少しも思わないし、であるなら結局、厳しい訓練というものは何かを望む人間にとって損の少ない行為なのだった――激しい苦痛を除いては。
 ということなので、厳しい訓練をひとつもしてこなかった、ただ運とセンスと病気のおかげで生きて来られただけのような私は、厳しい訓練の動画を見て憧れに似たようなわくわくを覚えるのだし、厳しい現場のシンプルな価値観に安らぎを覚えるのだった。
 
 厳しい訓練ってなんだろうなあと思うのだけれど、それは出来なかったことが出来るようになることの手段、なのかなあと考えた。
 前段で私は厳しい訓練をひとつもしてこなかった、と書いたけれど、よく思い出してみると厳しい訓練をしたことが何度かあるようだった。
 ゲームだ。私は好きなゲームを一日に13時間やる。
 すると、ゲームの中で出来なかったことが出来るようになってくる。
 仕事がある日は一日にたったの5時間しかゲームが出来ないが、それでも続けていれば少しずつ上手くなってくる。
 指が動くようになるだけでなく、敵の動きのパターン・ゲームデザイナーの思考などが分かってくる。
 そうしていつの間にか私のプレイスキルは上達し、ゲーム内のキャラクターも強くなって、ゲームがクリアできるようになる。
 これは厳しい訓練だ。しかも最も幸福な厳しい訓練であり、私の動機は純粋な愛だ。
 ゲームをするって、ハハ、笑わせてくれてありがとう、遊んでるだけだよそれは! とブラックsotokuroが呟いたので自己との対話シークエンスを始めることとするけれど、遊んでいるだけなのだ。
 遊ぶことと、厳しい訓練は、矛盾しない。
 というかある人から見れば私の13時間のゲームは厳しい訓練であり、ある人から見れば遊んでいるだけなのだ。そこには視座の違いしかない。
 例えば陸上競技の選手が厳しい訓練を経て、世界新記録を樹立したとして、それが一体なんの役にたつだろう。
 何にもならない。少子高齢化は止まらないし、戦争は止まらないし、世界の貧困も止まらない、癌の進行は止まらない。
 足の速い人がひとり出来た、というだけで、何の意味もない。
 ただひとつ確実な価値があるとすれば、その選手がとっても嬉しい気持ちになる、ということで、それが一番大事なことだと私は思う。
 何か意味があるとか無いとかはどうでもよくて、やりたいと思ったことを精一杯やればよくて、精一杯やろうと思ったらそれは高確率で厳しい訓練になる、というだけのことだ。
 副次的な作用として、その選手の動画を見て希望を抱くという人もいるだろうけれど(私のように)、それはあくまで副次的な作用であり、人を笑顔にするために頑張っています! という人がいるのは嘘ではないのだろうけれど言葉が足りず、人を笑顔にすると自分が気持ちいいので頑張っています! が本来の意味だと思っている。
 それはそうだろうと思う。
 人の笑顔を見ると吐き気がします! という人は、人を笑顔になんかしたくならない。
 自分のためである。
 自分のために厳しい訓練を経て、自分のために自分自身を救済し、いつの間にか周囲に希望を与えていればよい。
 
 なにかに一生懸命になっていると「そんなことをして何の意味があるの? やめたほうがいいよ」と言ってくれる心優しき人々は必ず一定数いて、それはそれで正しいのだろうし思いやりなのだろうけれど、向き不向きはあるので時にはそういう人の話を聞くのも重要だけれど、一生懸命やりたい、もっと知りたい、頑張りたい、楽しすぎる、生きている実感がある、などを感じてしまった人は止めることができないので、そうなった人間はほんの少し人間をはみ出し、新しい価値観を身に宿しているので、他者に価値観を依存するようなことはないので、私は厳しい訓練の動画を見るのが好きだ。
 何十年も人間でいるという厳しい訓練を経て、私はそういう事を考えた。