みんな普通の人間だから

 近所の松屋に入った。
 食券を買った。
 席に座った。
 熱いお茶が出てきた。
 熱いお茶か……と私は思った。冷たい水がいいのですが……。
 言い出せなかった。
 水ください、と店員さんに言えるような人間なら、きっと不眠症になったりしない。
 熱いお茶を飲んだ。結構なお点前だった。
 私はスマートホンで小説を読んでいた。
 外出中の私は大体スマートホンで小説を読んでいるか、ヤフーニュースを読んでいた。
 すごく面白いスマホ対応のゲームがあればいいのになと思う。
 スマホ対応のゲームをいくつかやったことがある。面白いけれど何かが足りなかった。
 切実さのようなものだ。家庭用ゲーム機のゲームには、それがあるように思われた。
 態度のようなものだ。価値観のようなものだ。愛のようなものだ。
 どがん! とキッチンから爆発音が聞こえた。私は紳士だった。音の方へ顔も向けなかった。
 紳士たるもの、人のミスには目を伏せ、己のミスには大いに赤面すべきだ。
 紳士たれ、キッチンの人、と私は思わなかった。キッチンからは何も聞こえてこなかった。
 どがん! と入口のガラス戸から爆発音が聞こえた。乱暴に戸を閉める客だった。
 私は小説に気を集中させていたが、生まれつき繊細なレーダーが周囲の状況をつぶさに感知してしまう。
 鈍感の真似をして生きている。何も気がつかないふりをして生きている。目を伏せ、心を閉ざしている。
 お待たせしましたぁ。声と共に大きなトレーがやってきて、目の前にカレーが置かれる。
 コーン・サラダ。みそ汁。大盛り牛丼カレー。
 スプーンを手に取りかけ、気がついた。
 スプーンに乾いたカレーがこびりついている。なんかにんじんのかけらみたいなものもついている。
 私は哀れなほど狼狽し、店員とスプーンを何度も見比べ、冷汗を流した。
 一度は、こう考えた。
 「お茶でナプキンを湿らせて拭けばいいんだ。そうすれば店員さんに迷惑をかけないことが出来る……」
 お人よしも、ここまでくれば病気である。どうして私が不眠症なのか、私にはよくわかる。
 人は、なるようになり、なるようにしかならず、なるべくしてなるのだ。
「外黒さんて“繊細さん”ですよね」と、後輩が真顔で聞いてきたことを思い出していた。
 この人は、よくそんなことを言えるものだな、と思った。
 あなたって太ってますねとか、ブスですねとか、くさいですねとか、そういうことを言っているのと同じなのに、テレビで聞きかじっただけの今風の概念に他人をあてはめ、自分一人が気持ちよくなるためだけに無神経な言葉を繰り出す。
 それが普通の人だ。
 私は他者を恐れ、愛しすぎるがゆえに、病気の人であった。
 じゃあ、普通の人になろうっと、と思った。
 私は切り替えが早かった。
「すみませ~~ん」
 キッチンに声をかけ手を振るが、スタッフは一顧だにしない。
「すみません!!!!」
 私の大音声が店内をびりりと震わせた。
 大きな声を出し慣れていないので、大きな声が出過ぎたのだ。
 でも知ったことではなかった。
 はいはい、と呟きながらスタッフが小走りで近寄ってきた。
「申し訳ないんですが、スプーンが汚れているので、取り換えてもらえますか」と私は言った。
「あっ、汚れ、はい~」とスタッフは言った。
 そしてろくに洗われていないスプーンをトレーから取り上げてキッチンに小走りで戻っていった。
 食器のこすれる音がして、スタッフが「ははは」と笑ったのが聞こえた。
 それからスタッフは新しいスプーンを持って小走りでやってきた。
「どうぞ」とスタッフは言った。
「ありがとうございます」と私は言った。
 私は新しいスプーンでカレーを食べながら、あの人は最後までひとことも謝ったりしなかったなと思った。
 あっ、すみません、くらい、言えるのではないだろうか。
 どうしても言いたくないんだろうか。
 それともそもそも謝るという発想自体が無いのだろうか。
 理由など知ったことではないけれど、事実として彼らは、汚いスプーンのことをなんとも思っていないし、それが当たり前だと思っているのだろう。
 それはそれで仕方ない。
 いくら洗っても完璧に綺麗になるわけがないから。
 完璧に清潔を求めるならそもそも外食なんて出来ないから。
 人が口に含んだものを自分も含むかもしれないという覚悟がない人間は外食なんてしてはいけない。
 それはわかっている。
 でもそのことは、謝らないことの理由にはならない。
 そして謝らないことこそが、彼の卑近な普通さを見事に体現していた。
 私は心の中でおめでとう、と唱えた。
 おめでとう、名もなきスタッフ。君は普通だ。
 それでいい。
 私は、君が健康なまま生きてくれるなら、それでいいと思っているんだ。
 ありがとう。
 空の器にスプーンを置いて、立ち上がる。
「ごちそうさま」とキッチンに声をかける。
 もちろん、返事はない。
 普通だ。
 私はガラス戸を開け、そして夕闇の町へ歩いて行く。
 それから、あの店に行くのは不快だからもうやめようっと! と思った。
 私も普通だ。