アラームを使う自分を信用しない

 開始ボタンを押してカウントダウンが始まっていた、と思う。カップやきそばにお湯を注いだのは、もちろん覚えている。それからテーブルのスマホのアラームで3分にセットして開始ボタンを押した、と思う。カウントダウンが始まっているのか確認したくて仕方ない。しかし、カウントダウンを確認してしまったら、アラームの意味がなくなってしまうではないか。
 
 アラームは便利だ。決まった時間になると生真面目に知らせてくれる。サボったりもしないし、音を鳴らし忘れたりもしない。そのおかげで僕は時間を気にすることなく好きなことが出来る。ゲームも出来るし、読書をしてもいいし、ぬいぐるみを抱きしめながら世の儚さに思いを馳せてもいい。もしアラームが無かったら、ずっと時計を気にしなくてはならない。頼れる時間の番人は、今日も世界中で生真面目に働いている。ところで、僕はだらしがない。よく物を忘れる。仕事に行こうと玄関のドアを開け、外に出てから鍵を忘れたことに気がつく。買い物に出かけた先で何を買うのかを忘れる。あごにマスクをひっかけて、マスクをどこにやったのか一生懸命探していたりする。つくづく自分が情けなくなる。そんな調子だから、時間を確認するなどという集中力を要する作業を任せられたら、失敗するに決まっている。謹んで辞退する。そんなわけで、アラームを使うことになる。
 カップやきそばを作る時や、見たいネット配信まで時間があいている時、スマホでアラームをセットする。音が鳴ったら湯を捨てる。あるいはパソコンの前に移動する。アラームはミスをしない。しかし時々、音が鳴らないことがある。大抵は決めた時間を何分か過ぎてからそのことに気がつく。あれ、音鳴ったかな、と不意に気がついてスマホを見て愕然とする。時間を設定する画面のまま、すべてが止まっている。時計を見ると案の定、時間を過ぎている。そこからは超人的な速度で行動するようになる。カップ焼きそばを持って台所に走る様はまるで銃撃を逃れようとする兵士だし、パソコンの前に滑り込む姿は9回裏の逆転がかかった野球選手のヘッドスライディングだ。
 誰が悪いのかは言うまでもなく自分だった。開始ボタンを押し忘れているのである。それなのに、不思議とアラームにも責任があるような気がしてくる。全面的に僕が悪い。それは認めている。でも1割くらいはアラームも悪いんじゃない? 時間設定の画面を表示させたということは、アラームを鳴らしたいという意思があるということなんだから、開始ボタンを押し忘れていますよって教えてくれてもよくない? と、無駄な理屈をこねたりしてしまう。もしアラームに口があれば「知ったこっちゃないよ」くらいは言うのだろうけれど、生真面目に沈黙を保ったままだ。
 カップ麺やネット配信ならまだ傷は浅いが、目覚ましのアラームとなれば話は違う。目覚め、時計を見て絶望し、上司に電話をかけ、最短で乗れる電車を震える手で検索し、湯になる前のシャワーで寝癖を洗い、ハンガーからシャツをひったくって着替え、鞄に財布を押し込み、革靴に足をねじ込んでドアを開け、そしてもちろん家の鍵を忘れている。おなじみの絶望。会社に着いて上司に小言を頂いたあと、僕は同僚に笑いながら言うだろう。「アラームが鳴らなくてさ」と。実際に、遅刻した人がこの台詞を口にするのを何度か聞いたことがある。趣のある、せつない一言だ。
 
 仕方なくテーブルのスマホを確認すると、カウントダウンは始まっていた。カップやきそばにお湯を注いだあとに、きちんと開始ボタンを押していたらしい。僕は自分自身を信用していないのでアラームを使うのだが、自分自身を信用していないのでアラームを使えているのかさえも気になってしまう。さらには、一度確認しても、その確認を信用していないので二度、三度と確認することもある。目覚ましアラームは必ず二つかけるし、二つとも寝る前に確認する。そんなに気にするなら設定した意味がないじゃないか、と自分でも思うけれど、それくらい慎重でないと失敗する。
 アラームは頼れるやつだけれど、僕とアラームは仲のよいお友達同士なんかではない。お互いに甘えたりしないようにしよう。
 やるか、やられるか。そういう関係でいたい。