海に潜る

 はじめてスキューバダイビングをしてきた。
 いい経験だったけれど、一緒に行った仲間が泳ぐということに関して何も恐怖を感じていなかったので、そこが残念だった。
 ぼくには理解できない。
 ひとりはまったく泳げない(犬かきしかできない)、もうひとりはクロールで息継ぎができない(つまりきちんと泳げない)という仲間たちで、彼らが全然泳げないということを現地についてから知った。よくそのステータスでダイビングをしようと思ったな、と呆れてしまう。
 ぼくは不安になった。泳げないふたりはやたらテンションが高く、送迎車の中ではずっと冗談を言い合っていて片時もそれが止まない。このテンションのまま海に行ったらふざけて変なことをするんじゃないかと思った。
 ふざけ合って誰かが溺れかけるとか、そういうのは一番馬鹿馬鹿しいことだとぼくは思う。
 プールと海は全然違うものだし、海の方が不確定要素が多い分もちろん危険なのだが、そもそもプールさえほとんど行ったことがないオタクの二人がどうなってしまうのか、ぼくはずっとずっと不安だった。
 結果から書くと、ひとりは「鼻に水が入った」という理由でインストラクターに救助されることになった。
 
 駅で待ち合わせ、全員が集合し、送迎車に乗った。迎えに来てくれたのは日焼けした細身のチャラそうな若い男性で、こう書いてしまうと失礼かもしれないけれどいかにもアクティビティーのインストラクターでござい、という感じの人で納得した。
 ダイビングポイントまでは車で1時間程度。ぼくらの他に三人組が合流して、計七人がバンに詰め込まれてむさくるしい車内となる。送迎車の中ではぼくの仲間A(ぽっちゃり)と仲間B(ぽっちゃり)とぼく(ぽっちゃり)がひとつの列にぎゅうぎゅう詰めにされており不快感が酷かった。さらに仲間Aと仲間Bがずっとしょうもない冗談を言い合っており、しまいには小学生のようにくすぐり合ったりし始め、ぼくは辟易してきて無口になった。泳ぐ前から尋常じゃなく疲れた。30過ぎの中年がくすぐりあったり変なダジャレを言い合ったりしているところを延々と見せられるとこんなに疲れるのかと思う。
「外黒さん、大丈夫ですか? 疲れたんですか?」と仲間Bが挑発するような聞き方をしてくる。眩暈がしてくる。ぼくが疲れているのはお前たちがずっと小学生みたいな感じだからだ……。とは思ったものの、楽しい雰囲気を壊したいわけではないので「うううん、大丈夫だよ、あっ、ほら大きい岩だね、大きいね、岩だね」と言った。「岩だ」「岩だ」と仲間達は言った。ぼくは仲間たちが岩に気を取られているうちに目を閉じた。あとから合流してきた三人組は大学生くらいの年齢に見えたが、車内ではあまり騒がず静かにお話していた。年下の集団の方が人間として優れている……。ぼくはどんどん気が重くなった。天気が悪くなってくると仲間Aが「なんだよ雨じゃねえか、雨が降ってんですよ!」と突然大きな声を出した。運転手のインストラクターが気を遣ってしまうからそういうことを大きい声で言うなよ。車内の雰囲気も悪くようなことをなんで大声で言ってしまうんだろう。だからこの人たちはまったく彼女が出来たことがないんだ、とぼくは思った。自分の言動が他者にどういう影響を与えるか、まったく想像できない人たちだ。なぜぼくはこの人たちと友達でいるんだろう?

 ダイビングポイントに着くと、まず着替えて来いと言われる。更衣室で、買ったばかりの海水パンツに着替え、送迎車の前に戻る。ダイビングの注意点に関して簡単な説明があった。耳抜きをすること、インストラクターと一緒に居ること、息を止めないことなどだった。その後ウェットスーツを配られたので着てみる。ウェットスーツはツナギ状の構造になっており、素材があまり伸びず、やや固いゴムのような感触で、肌にくっつくのでとても着にくい。やっと袖を通した段階でインストラクターの兄ちゃんがやってきて「あっ、チャックは背中側っす」と言った。ぼくは前後逆に着ていたのだった。チャックは背中側です、という説明は全然なかったのに、インストラクターの兄ちゃんが「ネタ枠ですね!」と言って笑っていた。ネタ枠で構わないのだけれど、脱げなくなったので(とにかく肌にくっつく)兄ちゃんに脱ぐのを手伝ってもらい、前後を逆にしてもう一度ウェットスーツを着た。その段階で体力の五割くらいが削られていた。
 朝、5時30分に起き、2時間電車に乗り、送迎車の中で1時間疲弊し、ウェットスーツを二回着る。ダイビングをする前から疲労の蓄積がすごい。
 
 ダイビングの前にシュノーケリングをすることになった。ウェットスーツでもこもこする体で岸壁から海へと下っていく階段を降りていく。天気は曇りで海はライトグレーに輝いている。階段は緩い傾斜がそのまま海の中へと続いていて、白波が階段を洗っている。海に入る手前で足にフィンをつけ、マスク(水中メガネ)をつけ、シュノーケルを口にくわえる。濡れたコンクリートはコケが生えていてとてもすべりやすいので、カニ歩きでゆっくり進む。海面に顔をつけてシュノーケルで息をする練習をする。水中メガネ越しに見る海底は、ほとんどが暗い岩だった。その暗い岩のごつごつした表面に砂やひょろい海藻や様々なゴミ(海藻の死骸など)が乗っているテクスチャー。そのはざまに青い金魚のような美しい小魚が群れていた。
 海は生も死もすべてがごった煮のスープだ。きれいなものも、きたないものも全部が混ざり合い溶け合っている。
 
 シュノーケリング中に仲間Bがぼくを腕で押すような真似をしてきた。
「危ないからからんでくるな」と言うとBは「あっはい」と言って遠ざかって行った。
 危ないということを分かっていなさ過ぎて不快だった。
 人間は膝くらいの水位があれば溺れることができるのだと聞いたことがある。ネットニュースには水難事故がたくさん流れている。危険な海洋生物はサメなんかよりよっぽどクラゲだとぼくは思う。離岸流に巻き込まれたら一度海岸と水平に逃げなければならない。サンゴには毒があるし、足がつっただけで人間は溺れる。ダイビングのプロだって何かミスがあれば死ぬ。たぶん仲間Bはそういうことをひとつも思い出すことが出来ない、あるいはそもそも知らないのかもしれない。
 波打ち際できゃっきゃする分には構わないし、プールで溺れたって監視員が助けてくれるかもしれない。でも海で溺れたらインストラクターだって助けられない。みんな溺れている人間を助けようとして溺れて死ぬ。
 シュノーケリングの経験者がぼくしかいないチームだったので、ぼくはチームから少し離れて行動していた。フィンで水中メガネを蹴られたくないし(そしてたぶん彼らはそういうことに気を配る余裕もないし)、万が一溺れかけると周囲の人間につかみかかってくる可能性があって怖い。ひとりで水にぷかぷか浮かんで海底をぼーっと眺めて遊んでいた。水中は音が少なく、自分の呼吸音がとても大きく聞こえる。あちこちに警戒心のまるでない魚が泳いでいて、ぼくが銛で突いていた魚とはまるで違う種族のようだった。突然強い雨が降ってきて、海面を激しく叩いた。大雨の日に泳いだことは、まだなかったかもしれない。シュノーケルを外して仰向けに水面に浮かぶ。ダークグレーの空から雨が降ってくる。水面で弾ける雨の音がどこまでも続いている。とてもいい気分だった。
「外黒さん! 大丈夫ですか!」と仲間Bが叫んでいる。
 心の底からやれやれ、と思う。
 
 シュノーケルの後は小休止したあと、はじめてのスキューバダイビングとなった。
 背中にとても重い酸素ボンベを背負い、腰に金属製のウェイトをつける。正確にはわからないけれど全部で30キロくらいあるように感じた。一歩すすむたびに足が軋むような感覚だった。陸でレギュレーターをくわえて呼吸の練習をした。強く早く息を吸うと「ずずー」と変な音がして呼吸がしづらくなった。大きくゆっくり呼吸をすると楽だった。練習もそこそこに海への階段を降りていく。海中に入ってしまうと装備の重さは全く感じなくなった。沈むという感覚もほとんどない。あんなに重かったのに、普通に泳げるくらいには軽い。これは直感に反する結果で面白かった。ウェットスーツのおかげで寒さもない。空気さえ続けばずっと海の中にいたいような気持ちになる。
 海中に張られた荒縄をつかみながらゆっくり海中散歩となったが、途中で仲間Aが奇妙な行動をし始めた。マスクをずっと気にしている。というか仲間Aは最初からずっと奇妙な行動をしていた。言語化が難しいけれど、水を怖がっている人の感じだ。体が固くなって沈みがちで、海底方向への移動が下手なので、荒縄を離してしまうと慌ててつかもうとしたりしている。
 結局インストラクターが素早く仲間Aのもとへ泳いでいき、しばらくハンドサインで何か指示していたが、解決しなかったので二人で海面へ浮上していった。後から話を聞くと、マスクの隙間から水が入ってきて鼻に水が入ったらしい。水を出す「マスククリア」という方法を事前に習ってはいたけれど、うまく出来なかったのだろう。ちょっと鼻に水が入ること自体は大した問題ではないんだけれど、そこで混乱してしまうと事態は一気に悪化する。仲間Aはパニックになる前にちゃんとインストラクターを呼べたので、偉かったね、と褒めておいた。この時実は仲間Bにも小さなアクシデントが起きていて、レギュレーターからずっと水が入ってきていたそうだ。くわえかたが悪かったのではないかと後から思った。
 ダイビングはレギュレーターを使っている分、シュノーケリングよりも楽で、魚をじっと見ていられたし、魚に近づくこともできた。ただ感覚的にはシュノーケリングとそれほど違いはなかった。ぼくの想像を超えなかった。子供の頃の遊び場だった海に戻ってきただけだ。おそろしくてきれいな、いつもの海だ。きもちわるいオレンジの海綿と、真っ黒いくそでかいナマコと、ゆっくりと飛ぶように泳ぐウミウシと、のんきな魚達と、そうだ、姉が割れたガラスを踏んで足の裏から真っ赤な血を流した海だ、ぼくはウニを踏んだことがあって、折れた棘が足の裏に何本も刺さったままで、父に一本ずつピンセットで抜いてもらったこともあった。友人のまぶたにささった釣り針、底も見えない深い海底の青黒い闇、灯台の岸壁にびっしりと巣食った無数の牡蠣とカラス貝のグロテスクな生命力、ねこざめのざらざらした肌、腐った潮だまりの悪臭と鳥にはらわたをほじくられた魚の死体と複雑に釣り糸の絡まったブイの綱と転覆した漁船と獰猛な虻、インストラクターがぼくに手を降った。それから指をOKの形にした。ぼくもOKを返した。そうして陸へと戻っていく。
 
 階段を上がる頃には重力が戻ってきて体がずっしりと重い。
 酸素ボンベを下すと途端に気持ちも明るくなった。
 仲間Bはインストラクターにありがとうございました、と慇懃無礼なほどに頭を下げ、別なインストラクターにもわざわざありがとうございましたとお礼を言いに行き、「えっ、俺何かしたっけ?」と普通にドン引きされていた。
 いやはや、なんとも。
 陸上は安全で快適でおそろしく凡庸なままだった。
 着替えをして送迎車にもどり、リュックサックの中からじゃがりこを出した。
 泳いだあとのじゃがりこは、最高においしい。