この現象はなんなのかなって、ずっと考えている。
おもしろいのだ。
Aの体を持って生まれたXという魂があるとして、彼女をAXとする。
AXが何か不祥事を起こすと、A体を廃棄し、あたらしいB体を手に入れて転生することがある。彼女をBXとする。
AXというキャラクターの不祥事は、A体に依拠しており、Xの罪ではないとされる。そのためBXはあたらしい個体として生まれ、なんの罪も背負っていないことになっている。Aという体を捨てること、Aが所属していた集団から追放されることが、Xにとってのペナルティーであり、償いということだ。
ところで、AXというキャラクターのファンの中には、Xそのもののファンがおり、Xそのもののファンは、転生先のBXのファンになることがある。
AXとBXは設定の異なるキャラクターであるにも関わらず。
魂のファンになる、って一体なんなんだろう。
魂のファンは、例えばA:美少女の体から、B:ヒキガエルの体にXが転生したとしても、やはりファンをやめないだろうと思う。私ならやめない。
では、A:美少女の体から、B:超兄貴の体に転生したらどうだろうか。
たぶん、おそらく、B:ヒキガエル体の時よりも、脱落する者が増えるのではないかと思う。なんというか、あまりにも「違い過ぎる」と感じるように思う。
どうしてそのように感じるのか考えてみると、結局最初に認識したAXという存在が、個体を認識する主軸になっているからではないだろうか。美少女AXが、ヒキガエルBXになってしまうことは、なんとなくファンタジーのオブラートで文脈をカバー出来そうな気がするけれど、超兄貴BXになってしまうと、まったく性質の異なる文脈を想像でカバーすることができなくなる。
それでもまだ魂のファンを続ける人はいるだろう。
では、声が変わったらどうなるのだろう。
同一の魂で、美少女AX(萌え声)から、超兄貴BX(野太いおじさんの声)にがらりと変わってしまったら、それでもファンでいられるのだろうか。
記憶や経験や思考回路が同じでも、まるで別人のように感じられると思う。
魂のファンだという人でも、9割くらいの人がいなくなってしまうんじゃないかと思う。
はじめに認識したAXという個性から、大きくかけ離れてしまうからだ。
それでもあるいは、本当の本気の命がけの魂のファンは、まだ着いていくのかもしれない。
では、性格が変わったらどうだろう。
同一の魂で、美少女AX(萌え声)|(内気・知的)から、超兄貴BX(野太いおじさんの声)|(強気・ヒステリー)に変わったらどうなるんだろう。
姿形も、声も、思考回路も変わってしまえば、もう、まったくの別人だ。
たぶん9.9割くらいの人がファンを辞めるだろう。
それでも極少数の人はやはりファンを辞めないのではないかと思う。
私は確信し始めた。
どんなにグロテスクな姿になっても、言葉を何一つ話せなくなっても、思考が狂気で埋め尽くされていたとしても、たとえ殺人犯になったとしても、ファンを辞めない人は辞めないと思う。
エンタメでもコンテンツでもない何かになっても、悲しみと苦痛しか湧いてこなくても、たぶん人はそれを愛することが出来る。
それが幸せなことかどうかは知らないけど、魂のファンって、そういうものだったな。
極端
ピーナッツを2キロ買った。
ずしりと重い、まめ。
ぽりぽり食べている。
私はリスになった気分を味わった。
まめばかり食べ、あきない。
本間ひまわりさんのMGS4実況動画を二日間で21時間観た。
非常に学ぶところが多かった。
深夜、げまじょ、たまンゴ、おりコウ周辺の動画を見た。
ひととひととの関係は千差万別でひとつとして同じものがないように思われた。
よく注意してみれば誰の周りにもそれはある。
休日だというのに部屋に引きこもっていた。
洗濯をし、飯を食べ、ベッドに寝転がって30時間ほど動画を見続けた。
これはひとつの能力だと思われた。
誰もうらやむことのないすてきな能力。
時折幸福感を覚えた。二日間の合計時間は2分ほどだった。
あとの29時間58分は虚無だった。
それが無駄だとも思えなかった。
半分開いたカーテンから刺す光は春の新鮮さを保ちつつ遮光されて弱って、鮮魚売り場のいわしみたいな鈍い明るさで私は光量不足のそのなつかしい光が好きなまま大人になった。ベッドに寝転がって動画を見て、部屋の中にはなんの匂いもないのに無臭でもなくぬるい透明な光のにおいがしていて、インターネットの音声のみが静かにじゃみじゃみ空気を乱していて、ここにあるのはすべて私に最適化された刺激の規制だったから、まったくの無よりもよほど静かでなんの刺激もない、まるで頭の中をそのまま外の世界に展開したかのような、終末医療の窓辺のような、安全で安穏で極端に苦痛の少ない、人生で最も完璧に平和な時間のひとつだった。
価値観の喪失という言葉をインターネットで検索した。何の意味もない言葉が並んでいた。シャワーを浴びながら、最も意味のない時間は二日酔いが癒えるまでの時間だと定義した。
「明日の夜、暇ですか?」友人のIさんから連絡があった。
私はIさんと酒を飲む時間を想像した。挨拶、笑顔、うまい焼き鳥、喧騒、ビール、いつもの窓から見える秋葉原のネオン、行き交う人の群れ、あたらしい会話、ふるめかしい会話、冗談、あたらしい経験、ふるめかしい経験。
断ろうと思った。姉の家に泊まるので、という理由にしようと考え、やめた。角の立たない理由を考えるのが当たり前になっている。でも、Iさんにはそれをしたくなかった。私はもっと自分勝手な理由で断ろうとしているし、それを知ってほしい。知るべきだと思う。この考え方は私らしくなかった。私の考えよりずっといい。
勝手に怖がる、勝手に好きになる
毎日シャワーを浴びる。
バスタブの中に立ち、頭からざばざばお湯をかぶっていると、時々背中をすーっと冷たい風が吹き抜けることがある。
バスタブの真上にある換気扇から外の空気が入って来たのだろう。
それは分かっている。それは分かっているのだけれどあるとき私は怖い想像をしてしまった。
換気扇ん所から女の人(幽霊)がつめたい吐息を吹き込んでいるのである。
私は怖かった。怖いからそんなことをしないでくれ! と思った。しないでくれもくそもないのだけれど、そう思ったんだから仕方ない。
その想像をしてからずっと女の人(幽霊)のことが忘れられなくなり、風が背中を撫でていくたびに思い出し、天井の換気扇を見上げることが出来なくなった。見上げることが出来なくなったとて、生活にはまったく問題がないのだが。
換気扇の女の人(幽霊)の想像をしてから1年ほどが経った。
1年経っても時々、女の人(幽霊)は私に冷たい風を吹きつけてきた。
私はだんだん慣れてきてしまった。
大体、何が怖いというのか。女の人(幽霊)が換気扇から顔をのぞかせていて、私に風を吹きかける。そうか、別に、いいじゃないか、という気がしてきた。
百歩譲って本当にそういう女の人(幽霊)がいたとして、その女の人(幽霊)は一体なぜそんなことをしているのか。私のシャワーシーンを覗いている意味はなんだ。冷たい風を吹きつけてくるのは何が目的なのか。答えはひとつしかない。
私に好意があるのだ。そうとしか思えない。奥ゆかしい女の人(幽霊)なのだ。そうでなければ言葉をかけるとか、壁一面に手形をつけるとか、長い髪の毛をバスタブにまき散らすとか、もっと幽霊らしいアピール方法があるはずなのだ。それをしないでただ背中に風を吹いているだけなんて、むしろ乙女だ。私に振り向いてほしいけれど恥ずかしくて声をかけられないのだろう。まったく。
百歩譲って考えるならそうなのだ。無論これは私の想像に過ぎず、女の人(幽霊)は存在しない。換気扇の乙女は存在しない。
存在しないのか。なんだか残念な気持ちになってきた。
いや、残念な気持ちになっている場合ではない。もうひとつの可能性について思い至ってしまった。
ふわっとダイアリー
人差し指を紙で切ってしまったので、タイピングするたびに痛む。
こんなことで生の実感を得たくないのだが。
昨晩は簡単な作業でミスをして、とても落ち込んだ。
誰でもできる簡単な作業を間違えた。もう6年もやっている仕事なのに。だからこそ余計に。
先輩に電話をしたら上手くリカバリの方法を考えてくれた。電話越しに町の喧騒が聞こえてきた。先輩は私がどこで間違えたのか即座に理解し的確に指示を出した。
他部署のIさんにも手伝ってもらった。ほとんど付き合いがないにも関わらず親切に教えてくれた。
2時間かけて作業を見直したのでサービス残業をした。
祈ってますね、と言ってくれた後輩のSさんには、復旧できたことを伝えた。
ありがたいことばかりだ。
帰宅する頃には反発的なやる気がみなぎってきた。
疲れが消え、頭が覚醒してきた。
勉強をした。
姉が「あんた白髪すごいな。白髪には麻がいいらしいぞ」と言って麻の実プロテインというものを持ってきてくれた。とてつもなく胡散臭いプロテインで、パッケージが緑色だ。でかでかとHEMPと書いてある。だめな薬みたいだった。袋を開けてみたら草餅の匂いがした。20gを水に溶かして飲むとよいと書いてあったけれど、(水にこのまずそうな粉を入れたら単純に地獄だぞ)と思ったので、お湯で溶かして飲んでみた。ほとんど味がしなかった。うっすらとキナコみたいな、やっぱり草餅みたいな、ただのお湯みたいな曖昧な味がしたので、ミルクココアを追加で溶かした。味があまりしなかった。ココアってこんなに味が薄かったかなと思案していたところ、スプーンにココア粉が山のように溶け残っていた。なんだかおもしろかった。
ひもじい
一日に一食しか食べていない。
腹、へったなあ。ぐう、ぐう、とお腹が鳴る。
私はお腹を押さえる。
「外黒さん、ちょっといいかしら」
呼ばれて仕事をしに行く。ぐう、ぐう、お腹が鳴っている。
壁一面の窓ガラスから白橙色の光がサーッと床を照らしている。
それを見て、なんだか腹へったなあ、と思う。
すこしオフィスが伽藍堂になった頃、私はスマートフォンを取り出す。
そしてケンタッキーフライドチキンのWEBサイトを検索し、メニューを眺める。
ちいさな箱に入った大きなチキン。うまそうだなあ。
腹いっぱい、フライドチキンが食べられたらなあと私は思う。
蠢
春はそこらじゅうでラッパが鳴っている。光の声が大きくなる。風には花や草や獣のにおいが混じり始める。蠢(うごめ)くという字は、春の足元で虫たちが目覚め始める姿をしていたから、春は走って来ないし、歩いて来ないし、風に乗って来ないし、湧いても来ない。
春は蠢いている。
赤ん坊なのだ。死から生まれいずる新鮮でひ弱な季節は蠢く。ヤコブのはしごを天使がゆっくり降りてくる。そこらじゅうでラッパが鳴っている。その音が眠る者共を目覚めさせる。簡単なことだったのだ。とても複雑そうなシステムに見えたものが、本当は信号機のようにシンプルだったのだ。春は蠢く。私はその音を聴く。
いつも赤いエレベーターホールに、Iさんが立っていて、目が合う。
Iさんは喫茶店に行くというから、私は散歩に行くと言う。注意深くIさんは笑い、一緒に行っていいですか? と言う。それを言わせたのは、私なのかもしれない、と瞬間思う。あるいはもちろん、もとより、春のせいかもしれない。過ぎようとしている季節にカーディガンを着せられていたように、栄春、われわれは散歩に行くのかもしれない。
並んでガラスドアを潜ると、すでに包まれている。光、風、幻影の花吹雪さえすでに視えている。往来の仏雄牛犬、金灰髪と碧髪の西洋人間、ヘルメットを脱いだばかりのガードマンでさえ、すでにあまねく浴びている。