春はそこらじゅうでラッパが鳴っている。光の声が大きくなる。風には花や草や獣のにおいが混じり始める。蠢(うごめ)くという字は、春の足元で虫たちが目覚め始める姿をしていたから、春は走って来ないし、歩いて来ないし、風に乗って来ないし、湧いても来ない。
 春は蠢いている。
 赤ん坊なのだ。死から生まれいずる新鮮でひ弱な季節は蠢く。ヤコブのはしごを天使がゆっくり降りてくる。そこらじゅうでラッパが鳴っている。その音が眠る者共を目覚めさせる。簡単なことだったのだ。とても複雑そうなシステムに見えたものが、本当は信号機のようにシンプルだったのだ。春は蠢く。私はその音を聴く。
 いつも赤いエレベーターホールに、Iさんが立っていて、目が合う。
 Iさんは喫茶店に行くというから、私は散歩に行くと言う。注意深くIさんは笑い、一緒に行っていいですか? と言う。それを言わせたのは、私なのかもしれない、と瞬間思う。あるいはもちろん、もとより、春のせいかもしれない。過ぎようとしている季節にカーディガンを着せられていたように、栄春、われわれは散歩に行くのかもしれない。
 並んでガラスドアを潜ると、すでに包まれている。光、風、幻影の花吹雪さえすでに視えている。往来の仏雄牛犬、金灰髪と碧髪の西洋人間、ヘルメットを脱いだばかりのガードマンでさえ、すでにあまねく浴びている。

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