ご飯がうまい

 風が強い。
 立方体の空気の塊がビルの向こうからやってきて、軌道上にある構造物はすべて影響を受け、樹は傾き、枝はしなり、葉は舞い上がり、鋭い音を立てて、ぼくの上着はびらびらとふるえ、体はやわらかい壁に包まれる。真夜中の喫煙所を吹き抜ける風は、実体のないアフリカの大地を駆け抜ける動物の群れのようで、わけもなく地平線の向こうへゆきたくなる。
 音楽が聴こえる小さな機械があって、それを耳に詰め込むと逆説的に頭の中がしんと静まり、どんなに大きな音が鳴っていたとしても、ひとりになっていた。海は局地的な現象ではなく、全世界とひとつながりの水たまりだったし、傷から染み出る血液は、実は体中に充ちている。とあるシチュエーションが示唆する物事の一面は、物事の全体ではなかった。
 ここ数日、とてもよく眠っている。意識的に眠ろうとしていたし、それは成功していた。歯医者の予約を忘れてしまった瞬間に、心と体を支配している限界に気がついて、絶対安静の世界にぽとりと転がり込んだ。音と光=情報、思考と運動=活動を遮断し、どのような生活をも放棄し、黙々とストイックに休み続けた。最初の二三日は内省が激しくなり、暗い部屋の中で鬱蒼とした寂しさや悲しみに包まれた。しかし絶対安静に慣れてくると、広大な無が立ち現われ、無感覚になってきた。これはたしかに最も休むということかもしれなかった。
 極端な熱中・集中・夢中を求めて生きてきたように思う。その概念は生きる意味そのものであるようにさえ考えている。しかし、夢中の対極にある絶対安静の無感覚は、言葉とは裏腹に、充分に充実していた。本当に何もしないという状況は、考えていたよりもずっと満ちていた。
 食う寝るは生きることの基礎で、食うと眠くなるということが示唆的だった。最近、やたらご飯がうまい。