たったひとつの大切なこと

今週のお題「日記の書き方」

 

 目覚めると耳がちぎれそうになっていた。ちぎれ感で目覚めたのだ。生きている、と私は思った。
 物質は冷たくなると固くなる。固いものは痛い。肩こりも剣山も痛い。耳がちぎれそうなのは窓の桟のゴムが劣化して隙間風がびゅうう、びゅううと吹いているからだ。どうしてこんな部屋に住んでいるのか。私は自分の人生を不憫に思った。体の大きな獣の腹の毛に埋もれなければ割に合わない。やわらかいものはあたたかい。あたたかいものはあかるい。あかるいものはエネルギーを放射している。熱は逆説的に死を連想させた。私、のっそりと目覚める。目覚めるといつも頭痛がする。超能力が発現しそうな頭痛だ。私は「ハッ!」と気合いを入れてマグカップに手を伸ばした。マグカップはパリンと音を立てて割れた。サイコキネシスだ。私は首を傾げた。超能力は発現していなかった。私は生まれつきサイコキネシスを使える。そうだったらいいなと思っている。マグカップが割れたというのは嘘だ。つい、嘘を書いてしまった。本当のことを書くと、私の耳がちぎれそうだというのも嘘だ。目覚めたというのも嘘だ。私は目覚めていない。小学三年生の頃、同級生の真紀子ちゃんが私に向かって「寝言は寝てから言いな」と言った、あの瞬間からずっと眠り続けている。嘘ばかりだ、この日記は。私の人生は。嘘で塗り固められた、虚しい人生だ。というのも嘘だ。目覚めたのは本当だ。これだけは信じてほしい。私はたしかに目覚めた。しかし何を指して目覚めたというのか。私は不眠症なのだ。もう随分眠っていない。眠ってないと書くと心配に思う人がいるから、眠ったという風に書いているけれど、本当はずっと起きている。起きて哲学を勉強している。人間はなぜ生きるのか? 昨日読んだ本はうすた京介先生の『ピューと吹く!ジャガー』だ。『ピュー! と吹くジャガー』だったか『ピューっと吹く! ジャガー』だったか分からなかったから今、きちんと検索した。これだけは真実だから信じてほしい。私は確かに検索をした。しかしジャガーを読んだというのは嘘だ。ジャガーを読んだのは私が小学三年生の頃、同級生の真紀子ちゃんが「これ、面白いから絶対絶対読んで」と本を貸してくれたので読んだ、あの頃から読んでいない。でもジャガーが、人はなぜ生きるのか、その答えのひとつであることだけは、真実であると断言できる。私はマンガからあらゆることを学んだ。一番大切なことを教えてくれたのは国民的な人気作品『ドラえもん』だ。これは検索しなくてもタイトルを書くことが出来た。本当だ。文字予測で出てきたから本当だ。現代の子供たちはドラえもんを読んだことがあるのだろうか。私はそろそろ還暦にさしかかろうとしている年齢の者だが、ドラえもんは子供たちのホーリーバイブルであり、私達の年代の子供はみんなドラえもんを見ていた。視聴率98%だった。嘘だと思ったか? 愚か者め。嘘ではない。私はそろそろ還暦だし、私の年齢の子供たちはみんなドラえもんを読んでいたし、視聴率は98%だった。愚か者は私だ。全部まとめて、嘘なのだ。すべて嘘なのだ。ついマウントを取りたくなってしまい、くだらない嘘で自尊心を慰めようとしてしまった。私はいまだ目覚めてはいないということなのか。55年前の真紀子ちゃんの言葉がよみがえる。
「寝言は寝てからいいな」
 私はあの頃からきっと、何も成長していないのだろう。こんなくだらない文章で時間を潰すのは、そろそろやめにしようじゃないか。コーヒーのいい香りがしてきた。きっと朝食の準備が整ったのだろう。私はリビングに向かい、私を目覚めさせてくれるものにキスをしよう。今日は真紀子との結婚記念日だ。何を書いているのだ私は。本当は、おお、神よ。すべて嘘なのだ。私は真紀子とは結婚をしなかった。誰とも結婚をしたことはない。それどころか、私はやはり目覚めてすらいない。私なんてものはこの世界には存在しない。生まれてさえ、いないのだ。この世界というものも存在しない。まるで哲学みたいな、本当の話だ。
 すべて、嘘なのだ。
 
 
 日記のルールがただひとつ。嘘を書いてはならない、だと思います。