ひどくくらげ

今週のお題「大人になってから克服したもの」

 

 筆なりに進みますけれど、その分、時間をかけて書いてみようかなという気持ちで今はおりますが、5分後にどうなっているのかというところまでは、私にも予測がつかないのですが、それでも少し頑張ってみようかな、頑張るというのはちょっと違うのかな、違うかもしれない。頑張るというより時間を割いて差し上げようかな、私のために。という気持ちです。私が私のために。あなたがあなたのために。という感じです。ひとりひとりがそれぞれおのおのを幸福にすれば、結局は全員が幸福になることです。100の幸福ではなく、(1+1+1+1+1+……)の幸福計算です。というような趣旨の文章を読んで、たしか小乗仏教的な考えだ、みたいな解説があったように思うのですが原文がどこにあるのかわからず、だからいわゆるわたくしの妄想である可能性は否定できないのですが、妄想だとして、妄想なりに、わりかし正しいような気もしています、個人主義的なジャパンの風向きを見ていますと。個人主義的なんでしょうかね。正しいことはわかりかねますが、でも孤独死が増えているのだとか。孤独死でない死があるのでしょうか。世界中の昔の王様みたいに家来を一緒に埋めるとか、あるいは一家心中とかが孤独死でないということなのでしょうか。それも結局は100の死ではなく、死は死者間でおそらく共有できないものなので(1+1+1+1+1+……)の死、つまり集団孤独死とでも呼べそうな、そんなものなんじゃないかと思うのですが、いかがか。誰かに看取られてもそれは孤独なんじゃないでしょうか。マラソンが孤独であるように。他者との繋がりが途切れがちであることと個人主義的な風潮であるということには関係があるのかな、無いのかもしれない。それらは実際にはまったく別の話なのかもしれない。わたくしは物知らずなので、何ひとつたしかなことは言えません。ただ私のこと、いわゆるわたくしの妄想を連ねるばかりです。妄想botです。たしかうつ病関係の本にもそのようなことが書いてあったと思うのですが、つまり現代日本は他者との繋がりが希薄である、というようなことが。狩猟採集民と呼ばれる人たちは一人で暮らしているというのは一人もいないそうです。必ず誰かと一緒に暮らしているそうで、だから一人暮らしをしているというだけでたいそう哀れまれるということですが、それも結局は人によるという気もします。リンゴって赤いな、と思い込んでいると、時々緑色のリンゴのことを忘れてしまいます。よくよく注意が必要です。狩猟採集民の中にもひとりの方が気が楽だなと思っている人はいるだろう、という話です。ダンゴムシとワラジムシって姿形はとても似ているけれど動き方は全然違うよね、みたいな話です。いやそういう話ではないです。なんの話でしたでしょうか。大人になってから克服したものの話でした。この話をするにはまず大人とは何か、ということから始めなければ、私の伝えたいことを伝えるのは不可能でありましょう。この文章における大人の定義とはいかなるものか、ということを、おそらく私は毎回それぞれの文章でやるべきなのでしょう。おそらくそれが最も丁寧であることでしょう。言葉というのは関数です。あらかじめ意味を持った文字列です。ですがその意味は時と場合と話者によって容易にフレキシブルに変化します。そのため大人、という言葉を使えばすなわち万人に大人のイメージが的確に伝わるかといえばそうではありません。私の中の大人のイメージとあなたの中の大人のイメージはたぶん違っています。そして私はこの場で私のことを書くことにしていますので、私は私の大人のイメージを、大人という言葉の意味に代入する必要があります。私はいつ大人になったのでしょうか? 大人にはなっていません、というよりも、子供と大人ははっきりと白黒にわけられるものではありません。ある地点までは子供で、ある地点からは大人である、というような明確な線は無いように思われます。法律的に成人したら大人だとか、経済的に自立したら大人だとか、結婚して子供が出来たら大人だとか、精神的に成熟したら大人だとか、そういうふうにいうことはできますけれど、それは大人の一側面であり大人の必須要素ではないのではないかと思います。誰しも子供として生まれ、グラデーションのように少しずつ大人びていきます。それは死ぬまで続きます。大人び続けます。なので、私は子供よりは大人だけれどもっと大人よりは大人ではないというところにあるように自己評価しております。大人度50点くらいでしょうか。大人度100点はどういう人でしょう。ブッダみたいな人かなあと思っています。神的なことではなくひとつの大人モデルとして、色々あったけど結局人を助けたくなって、ひとりでも人を助けた、みたいな人の事です。でもどうだろうな、その定義だとヒトラーも大人度100点になってしまうな。ヒトラーだってたくさんの人を助けた、けど同時にたくさんの人を殺してしまった。それは大人なんだろうか。いやブッダだって人を助け続けているだろう、でも仏教のせいで人が死んでいないとはいえないんじゃないか? いやいや、それでいいのか。大人度100点の人は神ではないし、清らかでも正しくもなくてよくて、それはただ単純に大人度100点というだけのことなんだ。だから完全に成熟した人間だからといって何一つ間違わないというわけではない。大人度100点は完璧と同義ではなく、単純に大人のモデルとして大人度100点ということなんだ。大人は間違わない、ということなんか絶対にないからだ。子供から大人はグラデーションで、人は歳を経るごとにだんだん大人びていきますが、だからといって大人の方が価値があるというわけでもありません。それはただ単純に大人びているというだけのことです。青から赤に色が変わったね、くらいの価値です。なので子供の方が優れているということもありません。更に、大人度はただ上昇するだけではなく下降もします。大人び続けるけれど途中で子供びることもあります。そのように上下に変動します。さらに時と場と話者によっても容易にフレキシブルに変化します。AさんはBさんと話すときには大人だけれど、Cさんと話すときには子供だ、みたいなことはよくあります。つまり私の中の大人という言葉は、大人は、常に変化を続けておりあやふやで曖昧で、その場限りの段階的評価である、ということになりそうです。この定義に何か意味があるのか、ないです。この定義をすることによって「大人になってから克服したもの」というテーマを書きやすくなったか、なってないです。つまり私はすごく遠回りをして迂遠に自分の首を絞めました。これもまた大人の一側面なのかもしれませんね。お話を元に戻して、私の定義した大人の意味を用いて、その上で克服したものはあるか、という題について書きたいのですが、あんなに曖昧であやふやでくらげで蜃気楼でオーロラみたいな定義で書けるのでしょうか。書けますが、というか、書けなくてもいいんです。というとこれもはなはだあいまいですこぶるあやふやでひどくくらげなのですが、絶対書けないとダメだよ! なんていうのは、子供じゃないでしょうか。0か100かではないのです。大人の定義がグラデーションである以上、題への解も必然的にグラデーションなのです。大人だから絶対に間違わない、ということは絶対にない、のだから、ここで克服したものについて答えられない、という答えを出しても大人です。というかそれが私の結論であり、ここまで書いてきたすべての文章がその答えです。私がグラデーションの大人という価値観の上で克服したものは、あいまいさや、0か100かではなく0~100の変化し続ける複雑な数値があるということや、ひどくくらげであることや、答えがないことが答えだったりすることや、なんかはっきりしないもやもやしたものを、そのまま受け止められるようになったことです。受け止めざるを得なかったことです。考え続けてきたことです。また、考え続けることです。もちろん誰がどう見てもはっきりとそうだと言えること、たとえばハンバーガーを見てハンバーガーだ、と言うことは好きですし、気に入っています。でも理不尽なことや不条理なことや意味不明なことを見て聞いて体験して、全部丸ごと分かることはできないし、できたらラッキーくらいのふんわりした気持ちに成長しています。どこかで子供だった私は、どこかで大人なのです。このまとめ方は、すこし大人しすぎるかもしれません。最後に子供度を加算したく思います。何事もバランスなのです。子供でも大人びた側面があるように、どんな大人の中にだって子供みたいな一面はあります。それでいいのですうんこ。