雪だるま方式

 出来れば幸福に過ごしたいので夏が好きだということにしたら、夏は終わらなくてよかった。いつも渋滞している国道。長い列。排気ガスの匂い。強い陽射し。焼けた鳥が落ちている。それから風が汗臭い。草むらから獣の匂いがする。道を歩いている人はみんな同じ格好をして歩いている。顔まで刺青が入っている男が道端に座り込んでいる。とてつもなく太った力士。双子のおばあさんってほとんど見ない。夏の息の根を止めに行く。それは特別私の役割というわけではない。それぞれ実施すべき儀式だ。きっちりととどめを刺しておかないと夏は息を吹き返すことがある。終わらない夏は苦しい。いつまでも心がざわざわしたまま、世界が肌寒くなった頃にふと何もかもが終わってしまったことに気がついて、そして自分は何もしなかったなどと無駄な悔恨を抱く。ということが人生で一度もなかったとは言えない。夏にとどめを刺すために最後の冷やし中華を食べに町中華を訪れ壁一面のメニュー札の中、油まみれの壁の黄ばんだメニュー札の中に冷やし中華をみつけてふとそこで夏は終わらなくてもいい、というより終わらないのではないかと思った。終わらせなくてもよくて、ずっと夏だった。11月はちょっと寒い夏で、1月はスキーが出来る夏で、4月は桜が咲く夏で、7月はいつもの夏だ。冷夏という言葉あるように夏でも寒いことがあるのは当然のことだから、じゃあ世界はいつも夏だ。ただ姿かたちや見る角度がほんの少し違っているだけに過ぎない。電車を降りる時、子供の叫び声が聞こえた。強い不平を訴える調子だった。意地悪なクラスメイトに嫌がらせされた時みたいな、心から事実を拒否する声だった。私は電車を降りた。ホームを数歩すすんだ頃、また子供が叫んだ。さっきよりも大きな声だった。拒絶の音色は変わらなかったけれど、切実な響きも混ざり始めた。その声はあまりにも動物的だった。危険を知らせる波長だ。生きているものなら、誰もが振り向かざるを得ない声だ。私は足を止めて声の主を探した。ホームに降り立った何人もの人間が、ある一点を見つめていた。視線を追うと、閉じかけた電車のドアに、べったりと顔をつけた少年がいた。小学校低学年くらいの、ぽっちゃりした少年だった。一瞬、彼がふざけているのかと思った。そうじゃないとすぐに分かったのは、ドアをつかんで引っ張っている大人が何人かいたからだ。少年は、開いたドアと車体の隙間に手を挟まれたようだった。大人たちは顔を歪ませて、微動だにしないドアを引っ張っていた。ドアはつかみどころが無く、まるで力が入っていないようだった。引っ張っていた大人の一人は、自分の行動が無駄だと分かると、形だけ引っ張るふりをして、軽くドアをつかむだけになった。少年の近くをうろうろしていた男性が、車掌がいるであろう方向に向かって「ドア開けて! ドア開けて!」と太い声で叫んだ。私は男性が叫んでいる方向を見た。車掌はいなかった。ドアが開く気配はなかった。ホームには何人もの大人が突っ立ったまま無感情な目で少年を見ていた。彼らは声を上げるわけでも、少年を助けようとするわけでもなかった。少年が再び「わああっ!」と声を上げた。酷く怒っているような、嫌な声だった。心を逆なでする声だ。見物していたホームの人間達の何人かが、エスカレーターを降りて行った。帰った人達は、少年の腕が千切れてもいいと思ったんだ、と私は思った。単純なことだ。少年の声は、世界のすべてを加害者にしてしまう声だった。部屋に蜘蛛が出る。また出ている。毎年のことだけれど、いつものアダンソンハエトリだ。最近、一匹部屋にいる。もう毎年一緒に生活しているから、本当に何も思わなくなってきた。ただ近くに寄ってきたり、床に落ちていてゴミと間違えそうな時には少し困るし戸惑う。でも寄って来た時は少し可愛いとさえ思う。指先で押したり、手を振って脅かして遠くへ行ってもらう。あんたが迷惑をかけないなら私の部屋に住んでいてもいいわよ。というような気分だけれど彼にしてみれば世界中が住処であって、ここが特別なわけではない。いつか母が言っていた言葉「あたしがいる場所があんたの実家だ」。私がいる場所が私の家だ。生活はレガートフレーズでシームレスだけれどそれを書くと文章というものの特性上、必ずフラグメントになる。腹筋をしたらまた腹が割れてきた。SSRIセントジョーンズワート。モノアミン仮説、モノアミン受容体仮説。観念奔逸。AKGのK712PROを買った。ヘッドホンを変えると聞こえなかった音が聴こえるようになる。ヘッドホン・リミックスだということに気がついた。EQやエフェクターも結局は自分でリミックスしているということだった。眼鏡を変えれば見え方も変わる。見え方が変わるということは世界が変わるということだった。計画を立てるのは、ただそれだけで面白い。旅行に行くときなど、何時にどこへ行って何を見て何を食べて、みたいに考えているだけで楽しい。それは今年何度か考えてきた理想という概念とよく似ている。実際に計画を実行できるかどうかは、実はあんまり「計画を立てる」という行動と関係が無いような気さえする。計画は結果のために立てるもの、みたいな考えは一般的だけれど計画はただそれだけで独立した価値がある。その、計画自体が持つ価値、を膨らませたものがフィクションの持つ価値の一側面である、ということにはもう疑いが無いように思われる。フィクションは実行しなくても面白いからだ。フィクションは実行されないことを前提にした計画である、と言ってもいい。計画を立てる時、我々はある意味では作家の一味である。Vtuberを見て新しい発見をしたんだけれど、彼および彼女達は「名乗りを上げる」ということをよくやる。ホロライブ三期生の海賊団船長のほうしょうマリンです、というやつだ。よく考えるとあれってすごく面白い。私もやりたい。名乗るっていうのは自分が何者なのか、自分で既定して提示して見せることだ。読者のみなさんこんばんは! 私は、あなたとは違う人間の、外黒えいすけです。借金が無いこと、犯罪歴がないこと、不健康だけれど生きていることが誇りです。私の人生はまだ、始まってすらいません。