嘘みたいな才能(読書感想文の感想文)

 何度も書いてきたけれど私は文章を書くのが大嫌いで読書感想文がこの世からなくなればいいと考えていた少年だったのだが根が生真面目というか小心者というか、教師に怒られたり冷たくされることに恐怖感があったので体中から粘度の高い汗と熱い涙を滴らせながら文字を消し過ぎてくしゃくしゃになった原稿用紙になんとか「普通に見えそうな」文章を文字通り刻み込み青い顔で提出するという苦行を何年も続けてきたのだが、書けない時には本当に書けず上限三枚のところを半枚で提出したこともあり、その時には「もっと頑張れないか」と教師も苦い顔して言ったものだが私が元来真面目な性格でありサボったりふざけたりしているわけではなく、本当にただ書けないだけなのだと理解されていたためか怒鳴られるということもなく、困ったものだけれど仕方ないから赦してやろう、というような雰囲気で解放されたりして、その雰囲気を子供ながらに敏感に感じ取り勝手に自尊心を傷つけられた気持ちになり更に文章を書くことが嫌いになっていくんだけれど今、充分に大人になってから当時の自分の状態について考える時、単純に軽度のディスグラフィア(書字障害)だったんじゃないかと思う。漢字の形に意味があると分かった時から漢字が好きで、だから国語に関しては得意だと思われていた節があるけれど、みみずがのたくったような、という慣用句を体現したような文字しか書けなかったし、そのせいで私の文章はいつも難解でそのため教師に小言を言われたこともたびたびあった。そして言わずもがなではあるけれど小言を言われるたびに私は自分の字への嫌悪を募らせた。文字を書く、ということ自体にコンプレックスが生まれ、その嫌悪感や文字の醜さを他者に否定される恐怖は年々強化されていった。そして中学二年の夏休みの読書感想文で私は完全なノイローゼになり発狂した。自室の机で書いたり消したりし、不安と苦痛でたまらなくなって家族のいるリビングのテーブルで書いたりしていると母が「そんなに悩むならもうやめなさい」と言ってくれた。私があまりに酷い姿をしていたからだろう。「感想文書けないくらいで死ぬわけじゃないし、やめなさい」と母は言った。そのたった一言で私は救済された。書けなくていいんだ、と思った。思ったけれど読書感想文への憎悪は消えていなかったので、読書感想文という制度自体を揶揄するような批判的な文章を書いて提出することにした。読書感想文を殺して私も死のうと思った。それほど追い詰められていた。震えながら原稿を提出した。これから酷い制裁が待ち受けていると思うと恐怖で胸がいっぱいになった。何日かが過ぎて教師は私を呼びつけた。「これあんたが書いたの。すごい面白いね。みんなに配っていい?」と教師は言った。私の読書感想文はプリントアウトされクラス全員に配られた。みんな笑っていた。とてもうけた。私は羞恥心で死にそうになりながらも嬉しかったし、同時に意味がわからないとも思っていた。破壊するつもりだったし、死のうと思っていたのに。その成功体験ともやもやした感情は今もずっと残っている。
 という内容の文章を今までたぶん8回くらい書いてきた。まったく同じ内容なのですぐ書けるし、この出来事をこれからも原点回帰的に書き続けると思う。と同時に、そろそろ夏休みなので全国の迷える少年少女達に同情してもいる。たぶん私のような子供がどこかにいて酷く憔悴し憎悪し自己否定し激怒し読書感想文と戦うのだと思うとたまらない気持ちになる。読書感想文なんて適当でいいし、書けないなら書かなくてもいいよ、と誰かが言ってあげる必要がある。書かなくていいです。あと美術の絵も描かなくていいです。私は絵も苦手で父に描いてもらっていた。父はなかなかの描写力を駆使して夏休みの宿題にはまるで不相応な絵を描いてくれた。銅賞をもらっていた。家族みんな笑った。
 とは言いつつも、読書感想文を書けないことにはリスクがあるため、出来ることなら「適当に書ける方法」を知っておいた方がいい。適当にさえ書けなかったから困るのであって、その方法があるなら私も読書感想文の破壊を目論んだりしなかったはずである。ということで『青少年読書感想文全国コンクール』の最優秀作品をWEBで読んでみた。どういう作品が模範的作品なのか、まずはそこから確かめなければならない。
 読んだ。笑ってしまった。文章が上手すぎる。「これあなたが書きました? すごいですね。たくさんの人に読まれるべきです」と素直に思った。本当に中学三年生が書いたんだろうか、うちみたいに親が書いたんじゃないだろうか。本人が書いたとしたら、嘘みたいな才能だ。私とは違い過ぎる。物語の内容と筆者の実体験や価値観をオーバーラップさせるバランス感覚がすごい。文体も端正で構成も見事だ。大人でもこんな風に書ける人はたぶんほとんどいないだろう。天才だ。全然参考にならない。こういう文章は、文章が書けないと悩んでいる人に見せてはいけない。天才と自分を相対化して自己否定の材料にしてしまうだけだ。
 読書感想文の書き方を検索してみた。心を動かされた具体的な部分を~、自分の考えがどのように変化したか~、みたいなことが書いてあってそうじゃないんだよなあと思った。教育としてはとても正しい。読解力を高めたり、ある程度現在の社会に則った「感じ方」や、テンプレ通りに文書を作成する方法を学んだ方がいいのは確かだけれど、でもそうじゃない。そもそも本を読むのが苦手で、読んでも特に感じることがなく、だから書くこともなく、自分の考えや身の回りの出来事を書くことさえ苦痛だという子供向けの読書感想文の書き方が知りたい。そんなものはない。
 どうしても嫌だったらやっぱり書かなくていいし、書くことを強制すべきではない。無理なものは無理でいい。体が弱いから体育を見学する子供だっている。どうしても書けないなら書かなくていい。範馬勇次郎の有名な言葉にもあるとおり“競うな、持ち味を生かせ”だ。しかし、それでも子供が頑張って書いたならその時には、たとえそれがどれだけ下手な文章でも、きっと思いきり褒めてあげることです。ただそれだけが、最後の道であります。私は読書感想文が大嫌いだったし、今でも苦手ですが、読書感想文でたった一度褒められたことをいつまでも覚えていて、だから文章を書いています。