勉強

 私は勉強が好きです。
 でも、学校は大嫌いでした。
「勉強しろ」と言われてうれしくなるような人は、おそらくいないでしょう。
 学校は勉強は強要します。
 あ、教養を強要します。
 
 大人たちが事あるごとに勉強しろと言う気持ちが、大人になった私にはわかります。
 変な人になってほしくないから、言いたくなるわけです。(ただ、中には「勉強しろ」しか言うことが思いつかない大人もいると思います。そういう大人は、まあ、勉強よりもっと大切な何かを、学び忘れてしまったのでしょう)
 変な人になる覚悟があって、上手に変な人がやれるなら、それはそれでいいのですが、大抵の変な人は、とても苦労します。
 嫌な目にも合いますし、最終的に「もっと勉強しておけばよかった」と言う大人になってしまいます。
 そうなってほしくないので、勉強しろと言いたくなるわけです。
 勉強しろ、と言っても効果が無いことを知っているにもかかわらずです。
 
 私は、自分が興味のあることを学ぶのが好きです。
 それ以外の勉強は、今でもあまり好きではありません。(たくさんのことに興味を持つようにしよう、という気持ちはあるのですが)
 たとえば私は、恥ずかしい話ですが、文芸が好きです。
 だので、そういう本を読んだりします。そういう本を読むと、たのしい気持ちになります。
 むずかしい本も読みます。読んだところで、すべて理解できるというわけでもないのですが、気にせず読みます。それはカロリーゼロのコーラみたいなものです――自分の身になるわけでもないけれど、おいしい。
 
 自分が好きなことについて、詳しく知りたいと思うことは、自然なことです。
 知りたくもないことについて、学ぶように強要されることは、不自然なことです。
 なぜ不自然なことが――学校教育が――行われているのかというと、好きなことを探すきっかけになるからだと私は思います。(義務教育のレベルでは社会生活に最低限必要っぽいことを教えてくれますが、社会生活で使うのは、せいぜい初歩的な算数くらいです)
 世の中にはいろいろな人がいて、算数は苦手だけど体育は得意だとか、社会は嫌いだけど国語は好きだとか、美術は滅んだ方がいいけど工作は発展を続けてほしいとか、様々です。
 学校に色々なジャンルの学びコースがあるのは、自分の好きなものをみつける手掛かりが、多ければ多いほどよいからです。
 それで、ここから極論タイムですが、もしすごく好きなものがみつかったら、その時点で学校には行かなくていいと思います。
 学校が好きな人はもちろん通えばよいし、学校が嫌いだけど我慢できる範囲だという人も通えばよいし、学校には勉強ではなく遊びに行っていますという人も通えばよいと思いますが、行きたくないなと思ったら、行かなくていいなあと思います。
 生きたくない、になるよりマシです。
 
 風の噂で聞きました。令和四年の小中高生自殺者数500人超だとか。
 私の生まれた町は、北国の片田舎のとても小さな町だったので、人口が5000人しかいません。その10分の1ほどの子供が自殺しているんだなあと考えると、くらい気持ちになります。
 子供たちが、自分の意思で死を選ぶって悲しいことだなと思います。勝手に死なないでください、と思います。
 私が中学三年生の頃、同級生の女の子の弟が、首を吊って死にました。
 背の小さな、頬の赤い、よく笑うかわいらしい少年でした。
 そのことを思い出しています。
 
 私はイームズのリプロダクト椅子に座って、あたたかい紅茶を飲みながら、文学を読んでいると、とても心が落ち着くのだし、すばらしい文章表現を目にすると、新しい概念に触れたよろこびが体中を駆け巡りますし、その時間は、死からもっとも遠いところにあるようでした。
 私が今、読んでいるのはトルーマン・カポーティという人の『誕生日の子どもたち』という本です。
 気まぐれにカポーティのことをwikipediaで調べてみると“アルコールと薬物依存に陥り、心臓発作で急死した”と書いてありました。
 私は本を閉じ、紅茶をひといきに飲み干しました。
 それから「まあ、大丈夫だろう」とつぶやきました。