静物の表面に

 はっきり言って寒い。
 暑い暑いと言い過ぎたせいか、今更寒いとは言いにくいところがある。
 極度の暑がりでも寒い時は寒いんだけどなんか「暑がりの慣性」のために寒さを肯定できないというか、本当に寒いのか? むしろこれを待ち望んでいたのではないか? みたいな妙な逡巡が立ち現われ笑ってしまう。ちょうどいい気温を通り越していきなり寒いんだものね。街を歩けば半分くらいの人はもう長袖を着て歩いている。長袖を着たい気持ちはあるけれど昼はまだ多少暑いのでここがLimbo。
 何かドラマチックな事件が起きればよかったんだけど。
 10年くらい前からただ書くだけならいくらでも書けるけど面白い文章を書くのはとても難しいと思っていて題材が慢性的に不足している。平穏無事な日常を生きていれば当然題材も平穏無事にならざるを得ずそこにあるのはワクワクでもドキドキでもなくフルフラットな静物の暮らしなので、できれば書いて楽しいと思いたい私は題材を持っている人がほのかにうらやましいと思うものの、私は私で他者は他者なので私は私の静物を様々な角度から眺めてスケッチしているうちにドライブしてきて白紙が埋まっていくだけでそれなりの達成を感ずるように自ずから適応に向かった感はある。それでも理想としては毎日感動していたい。毎日感動していたら即疲弊するような気もするけれど。
 一日一話、SPECを観ている。
 面白い。毎日少しずつストレスと適応障害の本を読んでいる。面白い。ひと月に一冊カーヴァ―の短編集を買って読んでいる。面白い。毎日ビタミン剤とDHAを飲んでいる。面白くはない。面白くもなき事を面白がれるように訓練を重ねている。けれど面白くないことは面白くない事として受け止める判断力も身につけたい。魚は空を飛ばないし鳥は海を泳がない。鳥を泳がせようとしたってよくないことが起きるだけである。魚と鳥を見分ける力を我に与えたまえ。みたいなことをニーバーさんがもっとかっこいい言葉で言っていた。この間、アニメ映画で神はそれを与えたもうた。
 あさってはラーメン二郎を食べに行く予定だったのだけれども。
 まさかの大雨の予報だった。一緒に行く予定だった同僚は二郎を食べたことがないから、色々教えてほしいから、一緒に行こうと誘ってくれたのだけれど、彼は行列に並ぶのも嫌いだし、雨はもっと嫌いだということを述べていた。二郎は並ぶし、あさっては雨だった。雨が降ったら中止にしようね、と私は言った。延期ね、と彼は言った。いい訂正だなと思った。
 アダーはまだ家を出て行かない。
 朝、バスルームから出ると床を跳ねていた。あっ、またいるな、と思った。何代目アダーだろうか。もう数えていない。彼はベッドの下に飛び込んで隠れた。私はお前たちを殺さないので隠れる必要はないんだよ、と思った。けれど私が何を思おうと彼らには関係がないことだった。そろそろアダーも姿を消すだろう。どこか私の見えないところで暮らすのだ。私は暖炉の前のロッキンチェアで揺れながらまどろむアダーを想像している。それからミートパイを焼くアダーを想像している。そこはとてもあたたかなアダーの家庭なのだ。赤いニット帽を被ったアダー坊やが雪の降る庭で空を眺めている。犬のアダーが彼の周りを走り回っている。遠くで教会の鐘が鳴る。
 陶器に装飾を施そうと思った人はこういう気持ちだったのかもしれない。
 静物の表面に。縄文人だってやってたんだ。