アイスで前歯が折れた直後の異様なテンションの作文

 それどころではない。前歯が折れた。
 仕事を終え深夜に帰宅し姉が用意した夕食を食べ終え冷蔵庫からアイスを出してかじった瞬間前歯が折れた。ばきっ、と音がした。何か変だなと思ったらチョコレートコーティングされたアイスの表面に半分に折れた前歯が突き刺さっていた。ほぼマンガだ。前歯が弱すぎる。飴か何かで出来ていたのかこの歯。実はそうなのだ。後述する予定だが僕の前歯は何年か前から作り物なのだ。しかしながらそれでもあっけにとられた。折れた前歯を手に取って何故か僕はそれをテーブルの上に置いた。特に使う予定もないのだが捨てる気にもならずテーブルの上に置き、それを虚無の気持ちで眺めていた。明日は友人と出かける予定があるのにどうしたらよいのだと考えた。友人に話したらきっと遊んでる場合じゃないから前歯をどうにかしようよ! というに決まっていた。そんなのは嫌だ。ずっと前から遊ぶ約束をしていたのだからその約束を果たさなければ気が済まない。基本的に前歯が折れたとしても予定を変えたくない性格だ。約束も守りたい。しかし前歯が折れており実に面白顔面になっている。スマホのインカメで前歯を映してみると実に間抜けだ。こんな顔で外を歩けない。いや別に歩ける。正直まったく問題ない。どうせ元々大した顔面ではない。自分の顔に愛想をつかしたのは中学生の頃だったろうか。とにかく物心着く頃には他の顔面に取り替えたいなあと何度も思ったものだがそれも結局は時が経ってどうでもよくなり今に至る。顔なんて正直にどうでもいいじゃないか。生きていればそれなりにいいことあるぜ。そして実際いいことはたくさんあったぜ。もう死んだっていいぜ! むしろ甘き死よ来たれ。死は救済。とは思うものの前歯はどうにかしなければならない。僕は早速、得意のインターネットを駆使して近所の歯医者を検索してみるものの本日はすでに零時を回って土曜日。医療機関はお休みの曜日であり実に頼りない。ここに前歯が折れて苦しんでいる人間がいるというのに医者共は休んでいる! 休むな! とは思うまい。何しろ医者も人間であり休日は間違いなく必要だ。どんな医者だってひっきりなしにやってくる患者の世話で疲れ切っているに違いない。むしろどんだけ患者来んねんどいつもこいつも顔色の悪いしけたクソばかり殺すぞ! と思っていたっておかしくないような職業ではないか。それを体に鞭打って働いて働いて働いて働いて働いてくれているのだから感謝こそすれ誹謗するような真似はするまい。ありがとう医療関係者。だいすきだよ。感謝の念は取り戻すことが出来たが気持ちだけでは前歯は戻らない。この前歯がはじめて折れたのは中学生の頃。前歯で何か固いものをかじった瞬間、2ミリほど欠けた。僕は目の前が真っ暗になるほどそのわずかな欠損が重大事のように思えたのをよく覚えている。取り返しのつかない非常事態だと思った。そしてそれは全然そんなことはなく、何年も後悔することにはなったが結局クソどうでもよくなった。それから20年ほど経ってごく最近、同僚のYと酔っぱらってバーでマティーニを飲んでいたら、マティーニの中のオリーブが非常に美味いオリーブだったのでオリーブだけくださいとバーテンにお願いして小皿にたくさんのオリーブを貰ったことがあった。オリーブだけバーで食うなだせえな殺すぞ! と思ってしまうプロ客もあるかもしれないが、今まで食べたオリーブの中で一番うまかったのだから仕方ない。むしろ僕はオリーブが大嫌いでいっつもなんでこんなしょっぱくて臭い実をみんな喜んで食っているんだ、ちょっと舌がアレなんじゃないの? と思っていたくらいだったのだがそのバーのオリーブを食べて価値観が根底から覆される思いがした。バカは僕で舌がアレで頭もアレだったのはこの僕の方だった。マイタイに刺さったパラソル型ピックで殺されても文句は言えない。とにかくそのオリーブには種が入っていて、種を前歯で噛んでしまい前歯は半分にへし折れたのだった。その時も相当ショックだったけれど充分に大人になっていたので中学生の頃よりはどうでもよかった。大人になることのよい点は、このようにあらゆることがある程度どうでもよいと考えられることだ。感情の鈍麻、というよりも色々なことに慣れるし、もっと酷い目に会う人を何人も何人も見ることになる。すると前歯が折れたくらいでは揺らがない。ショックはショックだけれど、その衝撃は自分の体から50mほど離れた場所の爆発みたいなもので、どこか他人事だ。その日は折れた前歯でオリーブを食べまくり酒を飲み気絶して目覚めたら家のベッドの上だったので歯医者に行ったら綺麗に歯をパテのようなもので成形してくれた。それは普通の歯と大体同じように見えた。保険が効かないということもなかった。すぐに普通の歯のように治って物も噛めるようになった。案外大丈夫なのだ。心配するほどの何かがあるわけではない。歯が一本無くなったくらい、なんでもないじゃないの。現実はそれほど甘くはないが、現実は想像より厳しくもなかった。つまり現実は相応に現実だったということだ。ありのままを受け入れるしかない。なるようになるしなるようにしかならない。それでも時には過去を偲んでみてもいい。たとえば高校生に戻れたら、僕は一体何をするだろう。大したことはしない。たぶん僕がやりたいことなど限られている。たとえば当時流行っていた小説をリアルタイムで読んでみたいとか、図書室に行ってどんな本が置いてあったか確かめたいとか、高校生でなければ出来ないことなどそれくらいだし、大体、僕は高校生でなければ出来ないことを高校時代にきちんとやってきたから、あえて高校時代に戻りたいということは特にない。高校生の頃に高校生はやりきった。それでもひとつ思うのは、生きているお父さんともう一度会いたい気はする。
 

 

お題「高校生に戻ったらしたいこと」

48分 2424字