夜のアイスは風邪のにおい

 秋の風の匂いは風邪を引いた時の匂いに似ているから、秋の風の匂いをかぐといつも風邪をひいたんじゃないかと勘違いして、具合が悪いところがないか、自分の体の隅々に神経を巡らせて捜査したあと、これは風邪をひいたのではなく、ただ風邪をひいた時の風と同じ匂いがしているだけだということに気づくんだ。
 インフルエンザにかかったことがないです、という人がたまにいて、ぼくはその人の気持ちはすっかり分からないけれど、というのも生涯で20回くらいはインフルエンザにかかってきたし、その3倍くらいの風邪をひいてきたから、だから秋の風のにおいって風邪ひいた時のにおいですよね、って言ったところで、すっかり分かってもらえないことがわかってしまっている。
 いいとかわるいとかではなく、差がありますね。その差自体が面白いですね、ぼくとあなたは違う人間だということがわかって、うれしいですね。ということも、そのよろこばしさみたいなものも、結局はあまり共感してもらえることがなく、ということは共有してもらえたこともないから、あなたとぼくの違いについて話すとき、いつもフットワークを使って、攻撃を避ける準備をしているような感じになることが、どうにも世間の狭さです。
 ぼくはあなたではないし、あなたはぼくではないし、ぼくはあなたにはなれないし、その逆も然りであることではありますが、それにしても、だからこそ、ぼくとあなたは個として、たったひとつのオンリーワンとしていられるわけで、別々の人間だからこそ、それぞれの経験があり、有意に個別であり、違うからこそ、それぞれの価値観が面白かったり、違うからこそ、それぞれの物語が面白かったりするわけで、同じ人間だったら、世界がすべてひとりの人間であることなら、そこには物語なんて必要なく、存在さえしていないわけで、そこには交わされるべき言葉もなく、生まれた時からゲームクリアしていたみたいな、静物めいた平和安寧があるだけで、それは人類補完計画で、それを面白いと思え無さそうな気配を感じるのはいたしかたないことで、ぼくはひとりの、ぼく以外のぼくがいない世界に生まれ、生きてきたからで、その根本を否定したり、その根本を無視して、あなたとひとつになりたいとか思ったって気持ち悪いというか、ぼくはあなたと別々でいたいし、別々でありながら同じような道を進んできたということの方がすきですけど。
 あなたの故郷に、遊びに行こうと思うんです。と言われ、色々教えてください。と言われ、ぼくは何度も何度も答えてきたように、何もない場所ですよ。と答えるのですが、それは真実真正にそう思っているからそう言うのであるがしかし、何もない場所ですよ、と答えると、何もないってことはないです、と否定されることもあり、いやたしかに何もないってことはないんだけれど、なんというか、ぼくの意見を言わせてもらえるならば、ぜひ聞いてほしいところなのですが、何もないということを楽しめる人間でなければ、ぼくの故郷を楽しむことはできないと思います、ということが言いたいのだし、というか、何もない場所という言葉は、別に故郷を否定しているわけでも、身内だからこそ下げるような物言いをしているわけでもなく、何もない場所がぼくはすきなんだけどな。何もないという言葉に負の感情はないわけで、何もないということを理解した上で、何もなさを楽しむわけにはいかないですかね。むずかしいですかね。ええむずかしいでしょうね。観光地化された場所ばかり、用意されたコンテンツばかりに馴らされて何十年も生活を続けてしまったら、むずかしいと思います。でもだからこそ、何もない場所というのはあなたを試しますよ。何もない場所であなたは自分を再発見しなくてはならないんですよ。さもなければ、一歩さえも踏み出せないのですから。そこは荒野であり、砂漠です。
 ぼくなら何もない場所に花を植えますけど。
 アイスの引換券を三枚もいただいたので、退社後、真夜中、最寄りの4駅前で途中下車してぶらぶら歩いて帰りながら、コンビニでアイスを三個貰った時、とてもうれしい小学生の気持ちになって、夜の道を歩きながらアイスをがしがし食って帰る時、やっぱり風が風邪のにおいになっていて、そのにおいをかぐだけで、まるで催眠術のように具合が悪くなったような気分になるの、心理学だった。
 お誕生日さんがいたのでおいしそうななんとかショコラを買って渡した。ぼくがお誕生日さんだった時には、その人から卵かけご飯用の醤油を貰った。プレゼント、卵かけご飯用の醤油。そういうのって思い出すたびにくそほくそ笑む。ありがとう。
 ツーリング土産をあちこちに配り歩いたり、結城さくながデビューしたりしてあわただしく、低気圧のせいか低温のせいか、秋かつ曇り多めの日照時間不足のせいか急に気分が深く落ち込んだりしているけれど落ち込んだからといって何か悪いことがあるわけでもなく勝手に気分は恒常性に従って復調するので気にしている時間が無駄なくらいではあるのだが、その落ち込みと復調のちょうど隙間の、妙に落ち着いた凪いだ、全身がうす青色の感じになる、研ぎ澄まされた感覚が、夏にはなかったから、体も脳の芯も一本の軸に沿って揺れない、その時に読書をすると信じられないほど真っ白で無臭の花が頭ん中に一輪咲く。そういうのがぼくの故郷なんだよな。でもわかってもらえないだろうな。
 ぼくは疲れはてて、降りしきる雪の中に座り込んで、灰色の空から雪が降る音をずっと聞いていなくてはならなかったんだ。