くるねなつが

 ふうんわりしたところから始めようとおもい題材はとくにさだめずかきはじめ、もじをふうんわりうかべておく。あまり地にあしのついたきぶんでもなくたゆたってとらえどころのない昼さがりのこと、そろそろくるねなつが、と受容のようなきもちになった。なつか、すると冷やし中華をまたたべることだ。さくねんは近所のらーめん屋の、やまもりの冷やし中華を常食としておったからことしもそれをやろう、あの九龍城砦の片隅にあったような油と時間にまみれた時代のついたらーめん屋の片隅でやきう中継を聞きながら冷やし中華をまたたべること。たべられること。くるねなつが、わたしはそれをふいにこうふくであるとおもった。わたしになつがくる、わたしはいにしえのらーめん屋にいく、そしてやまもりの冷やし中華をまたたべること。それはふしぎとこうふくな連鎖であることだった。それから肌にまとわりつくシルクのような熱気をおもう。澄んでたかい月、深い無限のくらやみをふくんだ夜空、原色の緑とあまりに強く発光する世界、まるでなにもかもが過ぎ去ったあとのように静かに揺れる町、セミの絶叫、空気にはいつもほのかに獣臭が混じって獰猛で、どこからか焼けた火薬のにおいもしている、スーパーカップをコンビニで三つかってその晩に三つとも食べる、くるねなつが。わたしはなつをおもうとき、いつも外の陽気と家の中の静謐の対比を嬉しむ。容赦のない不快指数と、エアコンの効いた物語世界の対比をたのしむ。アイスを食べてゲームをしよう、と考えるとそれだけでかならずわたしはきぶんがよい。ほっほっほ、きぶんがよい。たとえ実際にはゲームをしないとしても、それがわたしにとってただしいなつのすがたであることはすでに決まっている。ああうれしい。でもそれがなぜうれしいのか、わたしにはわからない。