きみとぼくの圧倒的な温度差

 きみはとてもつめたいからぼくはとてもあつくるしいかもしれない。
 
 温度差って難しいなあって思う。例:ぼくはさわぎたいけれどきみはしずかにしたい。みたいな時、どちらもが温度を持て余す。熱すぎたり冷たすぎたりするとびっくりするのは体も心も同じで、だから同じくらいの温度のものなら、それはなまぬるくやさしい。
 温度差ってものには、それでも救いがあるように思う。それは物質と物質を接触させておくと同じ温度になるという物理法則。それなら、いつかきみとぼくは同じ温度になるかもしれない。石の上にも三年。でもまあ、温度が同じになったからと言って、色や、音程や、深度や、ベクトルも同じになるかというと、これはまた別の話ではあるのだけれど。
星の王子さま』という物語を書いたサンテクスの言葉に“愛はお互いを見つめ合うことではなく、ともに同じ方向を見つめることである”というのがある。ぼくはこの言葉がすごく真実だと思ったから好き。だってお互いを見つめ合って歩き出したらぶつかっちゃうものな。同じ方向を見ているから並んで歩いていける。否が応でもぼくたちは前に進まざるを得ないのだ。なにしろ時間は逆行しないのだからね。とはいえ、時にはあとずさりして引き返すことも必要かもしれない。
 何が言いたいのかというと、温度差ってびっくりしちゃうけど、結局長い時を共に過ごすと等温になっていくのかもしれないな、という仮説。それからその温度差もまた個性と個性であるという諦念。そして温度差があるからこそ、温泉はきもちよく、きんきんのサイダーはうまいのだという実感。温度差って難しいなってぼくは思う。しかしまあとはいえきっとおそらくたぶん、きみはそんなこと思ってないんだろうな。
 
 という文章を書いたのですが、この文章の「きみ」には、たとえば「上司」や「犬」や「趣味の仲間のLineグループ」など、色々な関係を代入することが可能です。

あの店で冷やし中華を食ってるのはぼくだけ

 あの店で冷やし中華を食べているのは僕だけだと思う。
 そもそも店内に「冷やし中華はじめました」なんて書いてない。
 そんな親切な店じゃない。冷やし中華は、いつも貼ってある壁のメニューの端っこに、いつの間にかそっと増えている。高度な間違い探しで、だから常連であればあるほどその存在に気づかない。常連はメニューすら見ないからだ。でもぼくは去年、気が付いた。ぼくはあの店の常連で、週に3回は通っていて、間違い探しが嫌いではない。
 夏になるとあの店で冷やし中華を食べる。けれどあの店で冷やし中華を注文している人に会ったことがない。
「チャーハン」
「ラーメン」
「餃子、あとビール」
「ニラレバ丼」
 普段聞くのはそんな王道のオーダーばかり。もちろん、みんな食べたいものを食べればいいんだけれど、ぼくは季節に関係なく冷やし中華が食べたくなるので、「みんな、この店冷やし中華あるよ」と教えてあげたくなる。「気づいてないかもしれないけれど、壁の油まみれのメニューの中に、まったく同じ油まみれの季節限定が、そっと増えているんだよ。新メニューなのに油まみれなの。おもしろくない?」
 でもきっとみんな冷やし中華なんて食べたくないんだろう。
 若者は特に冷やし中華を食べたがらない傾向にあると思う。
 そうだ。
 若者は冷やし中華が嫌いなんだった。それを忘れていた。
 ぼくもそういえば嫌いだった、冷やし中華。なんかすっぱいし、麺にきゅうりとか乗ってるし、別にうまくないな、と思っていた。
 でもある時を境に、味覚がおおらかな成長を遂げ、なんか好きになった。
 冷やし中華も悪くないな、と思えるようになった。
 ぼくは年齢を重ね、あらたな味覚を獲得したということだ。
 そしてその新しい感覚は、夏と結びついている。
 だって冷やし中華は夏にしか食べられないものなのだからね。
 だからぼくは夏になると冷やし中華を食べる。
 それは新しい感覚の獲得への祝福のようなものなのかもしれない。
 
 あの店で冷やし中華を食ってるのはぼくだけだと思う。
 そろそろ夏も終わりだから、壁からメニューがそっと消えるだろう。
 最初から、何もなかったかのように。
 壁から冷やし中華が消えた時、ぼくはようやく夏が終わったことに気がつくだろう。
 去りゆく時を惜しむように冷やし中華をすすっているのは、あの店でぼくだけ。

【エスパー】猫又おかゆのすばらしかったところ【オタクの妄想】

 8月28日の『【スプラ3】前夜祭だ~~~!!!遊ぶぞ~~~!!!【 #SMOK 】』Mio Channel 大神ミオにて、一時的に大空スバルがゲームから抜け、一般ユーザーがチーム内に紛れ込んでしまった時、MOKの三人はハプニングをどうにかエンタメにしようと一般ユーザーを面白おかしくいじった。ゲーム配信を見ているとよく見る光景だし、そんな風にタレントにかまってほしいリスナーがスナイプしてVTuberチームに紛れ込もうとすることもあって、別にどうという光景でもないんだけれど、スバルがチームに戻ってきて一般ユーザーがチームを抜けた時、猫又おかゆだけが「ありがとうね」と言った。その後に続いてSMKもありがとうと言うのかと思ったけれど、誰も言わなかった。あの時「対外的な視点」を持っていたのはおかゆだけだった。そういう視点を持っているというだけでおかゆのすばらしい人間性が垣間見えるし、それは人たらしたる所以だと思う。
 ぼくはここであえて「優しさ」ではなく「対外的な視点」と書いている。おかゆはおそらく優しい人間なのだろうけれど、あの時に際立ったのは優しさではなくむしろバランサーとしての鋭い感性だった。
「一般ユーザーをいじる」のはとても難しいことだとぼくは思う。それは無関係な人を指さして笑う行為にとてもよく似ているからだ。そしてその時、一般ユーザーは発言をすることもできないし、一方的に笑われていることしかできない。面と向かって笑われているわけではないし、配信を見なければ自分が何か言われているということにさえ気づかないと思うけれど、「集団で・無関係な人間を・いじる」という構図は、みんなでサンドバックを殴っている構図とほとんど同じであり、たぶん嫌な気持ちになる人が出てくる。というかぼく自身が「ちょっとこのいじり方は不安だなあ」と思っていた。もちろんSMOKが一般ユーザーに向かって悪口を言ったわけではないし、笑いながら一般ユーザーの名前を何度も呼んでいただけなんだけれど、それがちょっとした非難に見えないこともなかった。そういう時ぼくは配信よりもむしろ流れるコメントをじっと見る。その中に「いじりすぎだぞ」と書き込んだ人がひとりだけいた。気づいている人がいる、とぼくは思った。それからほんの少しあとでおかゆが「ありがとうね」と言った。たぶん、おかゆも「いじりすぎに見えるかもしれない」ということに気づいてたんだと思う。おかゆは一般ユーザーに向けて「さみしくなる」や「かわいかったね」等のフォローの言葉を口にするんだけれど、SMKはそれに上手く気が付かなくて「あいつはメンバーじゃねえよ!」みたいな返しをしていて、おかゆのフォローをエンタメにしてしまう。エンタメにしてしまうのがVTuberの仕事なので、それはもちろん当然のことなのかもしれないけれど、あの時にあのタイミングでお礼を言えたおかゆは、やっぱり人間のことがよくわかっている勝ち猫だと思う。あと本文に関係ないけどぼくはころねすきーです。

うつくしいって

 うつくしい文章ってどこにしまったっけな。
 時々無性に「うつくしい文章ひとつください」みたいな気持ちになることがあるのだけれど、じゃあ美しい文章ってどういうものなのかって感覚を、外黒は結構昔に失ってる気がして、昔はもちろんあったのだけれど、うつくしすぎて涙がこぼれたりすることなんて当たり前だったし、だから当時感動した文章を読み返すことも可能なんだけれど、それを今読み返してみても、外黒は昔の外黒ではなく今の外黒なのであんまり感動しなくなっていて、それはその文章に飽きてしまったというよりも、その文章がすでに心の一部になってしまっていて離れないみたいな、思考の核と同化してしまっていますみたいな、というかその文章が今の外黒の文章の源泉になっている感じがして、だから当たり前になっている、普通になってしまってスプラッシュしない、という状態がさみしい、現実感消失症さえある、というよりも文章を書く動機の大きな割合を占めている愛が削れられているのが苦痛だ、という気持ちがあって、じゃあどうするかとなったら、また一から、またぼうけんのしょのはじめからはじめるしかないんだよなってわくわくして躁鬱の嵐の中を小船で縦断している。
 
 ていう文章を書いてから文章を引用しようと思って『ゴールデンタイム外伝 二次元くんスペシャル』竹宮ゆゆこ作 を流し読みしていたら号泣してしまった。やっぱりいいものはいいんだ。全然慣れてなかったし外黒の一部にもなってなかったよ。ゴールデンタイムはシリーズ全巻読んだけれど中でも外伝の二次元くんスペシャルだけが異色というか、異色ってほど本編と離れているわけではないんだけれどテーマが明らかに『創作』で、作るとか描くってどういうことかということが描かれるし、なんというかゆゆこ嬢が鍛え上げてきたラブコメ力の総決算的なところがあるように思えてならない。おそらくなんだけれどゆゆこ嬢は少女漫画の構造を少年向けラノベでやっていて、だから結構えぐい現実の一筋縄ではいかない人間の心みたいなものを鋭い筆致でえぐり出していくんだけれど、ガワはずっとラノベの体裁を保っているという、とにかく並の作品ではないんだけれど、それは竹宮ゆゆこが結局はラノベを離れて一般文芸のレーベルで書くことになる原因のひとつというか、ラノベの枠で収まらないことを書こうとしていたのは二次元くんスペシャルの段階でもうわかっていたことで、人間のこころを操ることが小説の使命だとしたらその力がすごく強い人は色々なことをするだろうという意味で、いやでも最近のゆゆこ嬢の一般文芸の作品よりも結局は二次元くんスペシャルが優れているというか、なんというかとにかくこの本編ではない外伝の出来が良すぎて、本編は全部売ってしまったけれど外伝だけはずっと大事にもっているくらいで、でもなんというかこの本はラノベの様式美、というよりも“美少女“というものに対するアンチテーゼ的要素があるというか、そういう存在を概念化して考えたことがある人のためのギャグだから好きだし、すごいと思う、というか好きなんだけれど、この本を色々な人に読んで貰いたい気持ちはあるにせよ、しかし誰にでも理解できる本でもないよなと思っていて、すごく狭い層に向けて書かれていて、これはぼくのための本で、ぼくのために書かれているならそれは誰かのために書かれていないという論理です。男オタク向けの本かというとそうでもないし、かと言って一般男性が読んですごく面白いかというとそうでもないと思うし、ちょうどその中間くらいの、中途半端な人間に刺さるように出来ていて、類似作品にはNHKにようこそがあって、でもNHKにようこそは若者であればだれもがシンパシーを抱いてしまうところがあるじゃん? ないけど、でも少なくとも主人公の姿をギャグだと思って笑って楽しむことは可能で、でも特定の人には刺さる。刺さるという言葉は痛みを伴うという意味で、でもとてもいい作品で、10代~20代の迷える男性は義務としてNHKにようこそ!を読むべきだと思うんだけれど、そして二次元くんスペシャルもそんな人達がやはり読むべきだと思う。で、結局、つまるところ、二次元くんスペシャルとNHKにようこそ!の亜種は太宰治じゃん? というかその始祖というか、ど底辺創作者の地べた這いずり人生街道みたいなのって何故かものすごく面白いんだ。だから太宰が美少女(概念)を書いたらたぶんめちゃくちゃ面白くなると思うんだけれど、でも太宰の作品で一番好きなのは畜犬談です。泣いたら疲れてしまった。もう書けない。うつくしい文章について書こうと思ったけれど、文章そのものの力に圧倒されて終わってしまった。もうおしまいだ。すごい。たぶん10年後に読んでもぼくはこの文章で涙するんだろう。
 
 

 

駅前に花を配るおじさんがいました

 

さいごにのこされた10分

 本日最後に残された最後の10分で文章を書こう日記のような文章を。
 生きているから疲れて疲弊し消耗している。右脳だけしんみり痛い。今日も今日とて休日で、何をしていたかと思い出してみるとたいしたことはしていない。明け方まで起きていたから昼に昼寝をして、それから本を読んだりした。そういえばメイドインアビスの最新話を見ようとしたけれど、例の最強の眠気が来て、目を開けているつもりなのに意識を失っている状態になって「これは無理だ」となっておとなしく寝た。この激しすぎる睡魔は回避が不可能で(何しろ覚醒状態と睡眠状態を隔てる壁みたいなものがなくなる症状なので)、そのことを思い返してみるといつもちょっと面白い。どのようにして覚醒から睡眠へシームレスに移行しているのだろう? でも思えば睡眠の本質とは常にそのようなものだったかもしれないな。生まれた時から。
 ここ数日は何故か元気が多少あり、本も読めているし絵も書いているし、部分的に文章も書いてはいるものの文章の出来があまり自分で気に入らないので気に入らなくてもいいやってなるまで放っておくことをしていたら状態異常は治ってきた。寝たり、時間を置いたりすることはやはり有効であった。最近読んだ本は『現代思想入門』千葉雅也著、『アニマンラスト』田中達之著、それから今読みかけているのが『ライティングの哲学』千葉雅也、山内朋樹、読書猿、瀬下翔太著で、著作者の名前を調べているうちにさいごの10分が終わった。
 さいごの10分。これが外黒の最後の10分かあと思って何かさみしい。一分一秒は一期一会というか、今この瞬間は二度と来ないのでこの最後の10分は本当に最後の10分で、二度と外黒の目の前には現れないものである。そう考えると目が俄かに冴える。
 外黒は今日、先輩と焼き肉に行った。その話はまた今度にしよう。