きみとぼくの圧倒的な温度差

 きみはとてもつめたいからぼくはとてもあつくるしいかもしれない。
 
 温度差って難しいなあって思う。例:ぼくはさわぎたいけれどきみはしずかにしたい。みたいな時、どちらもが温度を持て余す。熱すぎたり冷たすぎたりするとびっくりするのは体も心も同じで、だから同じくらいの温度のものなら、それはなまぬるくやさしい。
 温度差ってものには、それでも救いがあるように思う。それは物質と物質を接触させておくと同じ温度になるという物理法則。それなら、いつかきみとぼくは同じ温度になるかもしれない。石の上にも三年。でもまあ、温度が同じになったからと言って、色や、音程や、深度や、ベクトルも同じになるかというと、これはまた別の話ではあるのだけれど。
星の王子さま』という物語を書いたサンテクスの言葉に“愛はお互いを見つめ合うことではなく、ともに同じ方向を見つめることである”というのがある。ぼくはこの言葉がすごく真実だと思ったから好き。だってお互いを見つめ合って歩き出したらぶつかっちゃうものな。同じ方向を見ているから並んで歩いていける。否が応でもぼくたちは前に進まざるを得ないのだ。なにしろ時間は逆行しないのだからね。とはいえ、時にはあとずさりして引き返すことも必要かもしれない。
 何が言いたいのかというと、温度差ってびっくりしちゃうけど、結局長い時を共に過ごすと等温になっていくのかもしれないな、という仮説。それからその温度差もまた個性と個性であるという諦念。そして温度差があるからこそ、温泉はきもちよく、きんきんのサイダーはうまいのだという実感。温度差って難しいなってぼくは思う。しかしまあとはいえきっとおそらくたぶん、きみはそんなこと思ってないんだろうな。
 
 という文章を書いたのですが、この文章の「きみ」には、たとえば「上司」や「犬」や「趣味の仲間のLineグループ」など、色々な関係を代入することが可能です。