終わってる誕生日

 あなたに誕生日おめでとうをしてあげたいという人が現れ、その時、洗濯機を回しながら優雅な日曜日の、床の上で木のへらを器用に使う原始人の末裔は、スーパーカップのチョコチップ味を食べていて、だからスマートホンを横目でそろりそろりと眺めたあと(誕生日もう終わってるけど、もしかしたらこの人は七月の初週を何度も繰り返す世界線に存在していて、その事象に気がついていない可能性があるな)と、しばらく一人でにやにやしながらSF妄想を勃興していたのだが、誕生日って言われればまあ毎日が誕生日ってところもあるし、というのもたとえば誕生日というのはぼくが母からドゥクシと出てきた日が誕生日だ、と人類はそういう風な先入観にとらわれてはいるけれども、よく考えたら母&父がいなければぼくは生まれておらないので、ということは母と父の誕生日がすなわちぼくの誕生日でもあるわけで、母と父が出会った日や、あるいは母と父の母と父の誕生日がすなわちぼくの誕生日オリジンであるということもできるわけで、ということはもうほとんど毎日がぼくの誕生起原であるわけだから、人類が滔々と脈々と連綿と紡いできた文化社会などにBIG感謝ということになって、と見事な論理展開を繰り広げ、じゃあ誕生日当日ではなくとも、誕生日を祝われても良いではないかという柔軟な発想、いつでもどんな喜びでもかかってきなさいというアティチュードが自分の中にまだあることにわずかながらの満足観を発見しながら、では誕生日を祝ってくださいと返信をして、それからしばらく経って「お店をたくさんホットペッパーで選びました! 外黒さんってどういうお店がいいですか?」とずいぶんしっかりリサーチ済みで有難く、それなりにお高い大人価格の店がずらりと並んでおり、しかもそのすべての店の特徴として馬刺しが前面に押し出されており(この人、馬刺し食べたいんだなあ)となんだか妙にかわいい気持ちになるものの、結局馬刺しをメイン軸に据えていたのはぼくの健康を気遣ってのこととあとで判明するのだが、それはまた別の話だった。
 当日、昼間から馬刺しをメインコンテンツとした居酒屋でぼくと彼女は酒を鯨飲しており、つい先日の「断酒の誓約」などはもう破られていて(ぼくは人との酒は飲んでもいいかなと考えている。機会飲酒というものだ)、そのことにはもちろん忸怩たる思いはあるものの、彼女とここで記している人物はぼくが知る中でも相当の酒好きであり、食べ物は一切食べないけれど飲みたいときに飲みたい酒を飲みまくるという酒豪列伝という感じの人なのだが、物腰は丁寧で腰が低くしゃべりの速度は牛歩で声量はそよ風程度という慎ましやかな人格でもあり、その人の前で酒を飲まないというのはいささか場の楽しい空気を破壊してしまうことになるから、では飲み方を工夫しようと、ビールには必ず水のチェイサーを注文するようにしたらこれが面白いように効果てきめんで二日酔いもなく具合が悪くなることもなく、ウコン飲むよりも全然はっきりと体の調子がよかったから、これから飲むときは毎回必ずそうしようと考えている。馬刺し、漬物盛り合わせ、ロースビーフなどをうまうまと食らいつくしながらこの飽食の時代にぼくは大いに感謝しなければならない。こんなにうまい飯を簡単に食べることができることはほとんど奇跡的で、大昔のフランスの貴族とかよりももしかしたらうまいものを食べているのかもしれないとか考えていた。
「外黒さんがすごいのは、OJTで先のことまで考えて教えてくれたこと。それに、人にされて嫌だったこととかを外黒さんは覚えていて、そういう目にあわないためにどうすればいいか教えてくれこと。それって単純なことかもしれないけどなかなか出来ることじゃないんだよ。なんなら“俺が味わった苦労をお前も味わえ”ってそういう考えの人もたくさんいるんだから。わたしはほんとにものすごくたくさんの職場を渡り歩いてきて、たくさんの人間を見たからわかる。外黒さんはすごいんだよ。わたしを信じて」
 ありがたい気持ちになった。それからすこしうれしかった、もちろん。でもそれとは別にぼくは脳裏で分析してもいる。この発言の意味について、というよりも、彼女はぼくを“喜ばせようとしてくれている”という文脈を敏感に読み取る。ぼくはその瞬間に正しいリアクションを選び終わっている。ぼくは素直に喜び、照れたりして、それから巧みに彼女のよいところなどにつなげるトークをする。それは一種のマナーで、女性はそういうところが本当にうまいけれど、男性はあまりうまくない人が多い。ただの会話にもパターンはあり、そしてぼくはそれを学ぶために何十年かかかった。でもたぶん、そういうことを考えているからぼくは最近やたら人に誘われるようになったのかもしれないなと思う。
「外黒さんて人に隠れていいことするタイプでしょ。それってすごく損なのに、もっとぼくがやりましたって主張すればいいのに、そういうのって理解できる人がとても少ないからもったいないよ」
「もったいなくないですよ。だってあなたにはそれが伝わってるし、だからわざわざぼくの誕生日パーティーなんかをしてくれているってことだから。全然無駄ではないです。ぼくはわりとそういうところまで考えて行動してるんですけど、それをバレないようにしているだけです」
 忍者みたいな日々である。ぼくが得意なのは助手席だし、縁の下で裏から人間関係を良好にしていくタイプのムーブが好きです。
 それから後輩の新居に遊びにいってくだらない話を2時間ほどして、それから秋葉原の一軒目酒場で終電までビールと水を飲みまくった。
 彼女は酔ってくると「しあわせだなあ」と何度も言うようになる。
 ぼくはそれを聞くのが割と好きだった。
 そのシンプルな言葉には、なんの含みも嫌味もひねくれもなかった。
 終電には赤ら顔の青年共が詰まっていて、大きい声でがなって爆笑しているとか、体を極限まで傾けて眠っている人とか、手から滑り落ちが携帯が床で弾ける音とか、席がなくてドアの横に座り込む若い女性とか、スラム感があって懐かしい感じがする。
 地元の駅で電車を降り、むっとする夜気の中、家路についていると、草むらの中に人間が埋まっていた。
 尻もちをついた格好のまま道端の植え込みにめりこんでいるおじさんは、死んでいるように見えた。
 でも、簡単に死ぬことはない。
 あたたかい夜は、路上で倒れたって割と平気なのだ。
 人間の、そういう混沌を、ぼくはわりと好きである。