生きてうごめく

 ここ二日間はずっと家にこもっていた。
 ぼくが生肉だったら腐肉になっているくらいの時間だ。
 生肉ではなく生きた肉体と魂を持っているぼくは、物理的に腐ったりはしなかった。
 部屋もエアコンが効いて涼しかったし、肉体がすぐに腐り始めるということはなかった。
 でも、生きた肉と死んだ肉の違いはどこにあるのだろう?
 ぼくは何故、腐ったりしないのだろう?
 きっと血液が循環することや免疫が機能することや、生きようと思うことがまだ世界にあることなどが、秘密の鍵を握っている。
 でもたとえばぼくが腕を一本切ったら、切られた腕は放っておくと腐肉になるだろう。
 ぼくが生きていても、生きたぼくに接続されていない一本の腕は、ぼくが生きているかどうかに関係なく腐っていくだろう。
 ぼく自身と、ぼくから切り離されたかつてのぼくは、接続されていないというだけで無関係になってしまう。
 ただそれだけの前提で、一本の腕は腐るようになる。
 そういうのが面白いなあと思う。そのへんてこなシステムが、現代でもまだ死とか生とかを解明できていない人間の、曖昧なままで前に進むことができる特性が割と好きだ。
 わからなくても大抵は困ることがないから、ウインナーの名前を覚える方が大事だ、という生身の感覚が今は尊い
 そうやって即物的に眠ったり食べたり、温泉に向かったり会社の愚痴を言ったりする人間の、死から切り離された、死を認識していない目のそらし方が好きだ。
 ぼくもそうして、社会という名前がついたでかいサラダボウルの具のひとつになって、本質とか普遍的な人間の性向とか、あるいは新しい時代の思想だとか、そういうものについてまったく関係ないスナック・コーンみたいなものになっているような安心は――いずれスクラップ&ビルドされるにせよ――結局は、概念から遠く離れた眼前の現実の手触りを現実だと感じることの心地よさによって、忘却するのだろう。

 旧友、あるいは戦友、あるいはなんといったらいいのだろう、彼との関係を定義するのがぼくはあまり好きではないけれど、尊敬するI氏と久しぶりに会う。二年ぶりくらいだろうか、禍が始まってからはお互いに遠慮してあまり遭遇しなかった。
 彼とは以前、一緒に文章を書いていた。あの頃は、ぼくの人生の中でも狂乱の度合いが強い。思い出すのは机の前に座ってひたすらキーボードを叩き続ける日々で、苦痛と快がない交ぜになった、ある種の、恥ずかしい表現をするならセカンド青春期とでも呼べそうな、熱くるしい毎日だった。
 I氏とは焼き肉食べ放題を食べ、それから薄暗いアーティスティックな水煙草の店でシーシャをふかした。水煙草というのものは、紙煙草よりも爽やかな味わいでフレーバーがたくさんあるので、葉の味というよりも水蒸気のカクテルという味わいだ。I氏はスイカのフレーバーを選んだあと、追加でもうひとつフレーバーを選べるというので、わずかに悩んだ後「じゃあメロンで」とオーダーした。
 スイカ味にメロン味を混合しようとする発想がとてもIQが低い感じで面白く、ふたりですこし笑った。氏は勉強熱心なエンジニアであり思考能力も知識も非常にしっかりした人間だから、スイカにメロンを合わせるというものすごくばかな発想は単純に面白かった。
 雰囲気が非常に落ち着いたモダンで静かな空間だったので、
「孤独に歩め。悪を成さず、求めるところは少なく」と僕は呟いた。
 I氏はすぐに「林の中の象のように」と答えた。
 ぼくはそのやりとりがとても面白かったので、今でもしっかり覚えている。
 舞台の造形は、本当にイノセンスみたいな感性だった。

 この二日間は家にこもっていたんだけれど、時々外に出た。
 黒い冒険帽子をかぶり、手に文庫本を持って玄関を開け、マンションの廊下にしゃがみこんで本を読んだ。
 強い陽射し。青い空。無数の車が発する走行音。それから死に物狂いのセミの声。生ぬるい風。そういうものを全身に浴びながら、廊下で読書をするのにはまっている。
 ぼくが住んでいるマンションの階には、ぼく以外の住人がいないし、上の階にはひとりしか住人がいないので、廊下を使う人間は本当に限られており、だからぼくの存在が誰かを邪魔することはない。
 外で本を読むのが好きだ。
 自由な場所であるなら、なおさらいい。
 時々立ち上がり、階下の大通りを眺める。それから空を見て、夏を摂取している。肝要なのは強い光を浴びることで、それは日光であるならなおさらよい。
 ふと思い立って、マンションの最上階をさらに上っていくと、鉄の門が階段をふさいでいる場所に出た。屋上は封鎖されているらしい。ぼくは鉄の門の前に腰をおろし、しばらく町の風景を見ていた。
 空が少し近い。遠いマンションが壁のようにそびえている。朽ちそうな建物の屋上が目の前にあり、遠くには温泉の看板が町を見下ろしていた。強い風が流れている。町が動いている。