床屋物語る

 床屋がゲシュタルト崩壊した。なんなんだ、床屋って。床を売っているわけじゃないじゃないか。なんで床屋なんだ。本来床屋っていうのは宿場のことであり、旅の人が体を休め軽く飯を食ったりする場所であったわけだが、その際宿の器用な者に散髪などを申し付けることがあり、床で散髪してもらうことが当時の慣例であったことから、散髪をする場所のことを床屋などと申すようになった次第である。ということですか。違いますか。違ってもいいです。気に入っています。この説。流布しようと思います。ところで今日、いつもの駅前の床屋に行ったわけですが、これがもう見るからに床屋でございという風貌の小規模な、時代がかった、床屋の中の床屋、言うなればキングオブ床屋に行ったわけですが、自動ドアをウィーンした瞬間に、何故でしょうね、床屋はいつも妙に甘やかな匂いがしております。あの匂いを嗅ぐとああ自分は今床屋に来たのだなと感慨にふけることになるのですが、こんちきしょうめ、感慨などというものは床屋には不要であります。床屋に必要なのは毅然とした態度、それにはっきりとした髪型の理想・イメージ、そして散髪師に渡すわずかな手間賃と、椅子の上でじっと身じろぎもせず息を殺して時間が過ぎるのをただただ黙認する忍耐力、それだけであります。たったそれだけのことを、むかしむかしあるところに存在した幼少の折の私は持ち合わせておりませんでしたので、床屋というものを憎悪していたのですが、床屋誅すべしの不退転の覚悟さえ有していたわけですが、ウェーン床屋に行きたくないよぅと甘ったれていたのですが、否が応にも時は満ち、かつての軟弱内気な少年だった私も立派な日本男児(やまとおのこ)として成長し、誰はばかることなく往来を闊歩し、勤労に勤しみ、数々の人とすれ違い、擦れ違えば擦り減っていく純心の代価として、今では床屋へ行くことに何の抵抗も覚えません、と、こういうことになるわけですけれど、今でもたったひとつ、床屋でうまく出来ないこと――私の最後の純心、あるいは社会化し損ねた個人的ガラパゴス的思考、いわゆる個性――がありまして、それは床屋が必ず絶対に間違いなく口にするあの一言、手に持った二面鏡を私の後頭部にかかげてちょっと角度を変えたりしながら私に見せ言うあの言葉、床屋が叫ぶ必殺の一撃、「どうですか?」という、たったこれだけの言葉に、私は、大人になった私は、いつも深く懊悩しているのです。「どうですか? って言われても」と、思うの。だってもう切っちゃってるから「あんましよくねぇです」と言ってもアフターフェスティバルであり、本音で「床屋さんよ、俺ァ髪型のことなんざよくわからねえ、さっぱりしてくれりゃあ丸坊主だって構わねえんだぜ?」と言うことは床屋氏になんだか悪い気もするし、それは床屋の矜持に冷や水を浴びせるような行為であるから言えなくって、どうしよう、なんて答えたらいいんだろう、ウェーン分からないよぅと心で号泣しながら結局は「あっ、大丈夫です……」と答えてしまう自分の情けない言葉がいつまでも頭の中でリフレインし「あっ、大丈夫です……」「あっ、大丈夫です……」だんだん気が狂ってきて、私はなんて寸足らずで未熟で不十分で塵芥にも劣るクズ人間であることか、と思ってしまうの。いけないわね、自分を責めるなんてアホのすることよ。あなたはもう少し他責してもいいの。わかるわね、床屋にだって責任はあるのよ。と頭の中の優雅なマダムがおっしゃいます。みんな「どうですか?」って上手く答えられないものなの。だから床屋はすこし言い方を変えるべきね。私は何度もうなずきマダムの言うことについて考え、ひとつの解を導き出した。そうだ、床屋は「どうですか」と被散髪者に問うのをやめ、こう言うべきなのだ。「どや、ええやろ」と。そしたら私もアルカイックスマイルを浮かべ「ああ、ええな」と満ち足りた気持ちで答えることができる。「この刈り上げの具合とか、めっちゃええやろ」「ああ、上等や。あんたなかなかええ腕してまんな」「苦節20年。ずっとこの道でやってきたんや。わしのキャリアの中でも、今日のあんたの刈り具合は、いわば傑作っちゅうとこやな」「ああ、こらひとつのアートやで。あんたのおかげで私は歩く美術館や。ありがとうな」そういう風に、私はあなたを肯定したいのだ、床屋氏よ。私のことなど気にするな。私のご機嫌をうかがってくれるな。思う存分、あんたの好きなように鋏を振るってくれたら、言うことなんて何もないんだ。ありがとう、とってもよくなりました、って、ただそれだけ言いたいんだ。私はさ、床屋から出る時とっても気持ちがいいんだ。そのことを、素直に伝えられない私を、私は恥じるよ。
 今日はなんかゴリラみたいな髪型になった。それを、とてもいい髪型だと私は思っている。
 髪型なんて正直に言えば本当にどうでもいい。
 でも気に入った髪型になった時、私はいつもより胸を張って、歩ける気がしたんだ。