人生には色々なことが起きる。と書き続けてきたけれど人生には色々なことが起きる。帰郷した途端、喪主の補佐みたいになったりするし、雪かきをしまくってミニスキー場を作ったり、老母を抱きしめたり添い寝したりすることになる。どれだけの経験をして人間は大人になるんだろう。焼けて軽くなった人骨を箸でつまみながら、つまんだ骨をぼろぼろ落とす人を見てなんとなく無礼だなとか思ったりする。人骨を取り落とすのはどれくらい失礼なのだろうか、ネットには書いてない。人間の汚い部分が大いにつまびらかになる死と死の周辺の当事者に突然抜擢されて動悸が激しいまま貰い物の寿司を丁寧につまみまくる。空にはお似合いの灰色が何万年も前からずっと続いているこの地で平均年齢65歳のこのコミュニティーで僕はオランウータンが動かしたハ(ル)ービックキューブのように混乱を続けている。全ては過ぎ去って行くけれど過ぎ去るまでは火傷するほど熱いということを覚えていられないから人間は生きて行けるのかもしれないな。人間より高く積もった雪に閉ざされた町の閉ざされた人々の不幸の話が、まるでテレビ番組みたいに朝まで終わらないから視聴率100%の噂話が人間の娯楽になってしまった事に異論は持たない。ただ全ての人間の幸福を祈っているだけなのだが「あの人幸福らしいよ」なんて話はきっと人を苛立たせるだけなのだろう。白い床と白い壁と白い空の道を運転しながら姉と多分、どうやって人を殺したら被害者が幸福かという話をしていた。煙草を吸いながら。いずれ現実になる悪夢を何度も推敲する逃亡犯の気持ちで4日間を生き延びた。私の誇りは犯罪歴がない事と、借金がない事だけれど、今なら、生きているだけで偉いというだけでなく、死んだって偉い、とさえ真心で言うことができる。そんなにガバってる懐の広さはもはや即身仏ならぬ即身人であり、ダイヤの原石ではなく石ころの原石である私は磨かれてマーブル模様の玉になる。うつくしいのかきたないのか一目では判断できない、非エンタメ的などこにでもある芸術作品になる。人間が少しずつ壊れていくことから決して目を離してはいけない状況にある時、死は驚くほどシンプルで美しい解になるということを体験してしまったから、倫理観がドラクエの主人公くらい狂っている人生のシナリオをもう一度注意深く観察することを、強く願って実現させたい。楽であることは楽しいとイコールではないし、楽はたいして健康的でもない。いずれ慣れるよ、という言葉を放つ人は何も学ばなかった人だし何も生み出さない。2025年は激動の一年になる。例年通り。