文学のようなこと、ノンブレス・オブリージュ

 首がちくりとしたので、焦って左手の甲で払うと確かに昆虫の感触がして「刺された」と思った。
 しかし刺されることよりも恐ろしいのは払われた虫がぼくと座席の隙間を転げ落ち、背中や尻に押しつぶされてしまうことだ。
 硬い虫だったら、それはそれでいい。しかし脳裏にはもう服に張り付いた小さな死骸と染みの映像が浮かんでしまっている。
 それにもかかわらず、それなのにもかかわらず、ぼくは目を閉じて眠ったふりをしていた。
 何事もなかったかのように。
 確認を先送りし、なんなら虫の感触をさえ気のせいであったかのように振舞っている。
 今にも虫はぼくの尻の下に潜り込もうとしているかもしれないのに、ぼくは立ち上がる事さえしなかった。
 ぼくはそれを「文学じゃん」と思った。
 もしこれが文学なら、事態はより悪い方向へ向かっていく。終電まで電車に揺られた末、車掌に声をかけられるもぼくは世の中のすべての確認をすでに恐怖しており車掌の言葉も無視してしまう。車掌は反応がない僕を見て救急車を呼ぶけれど救急隊員はぼくの体に異常がないことをすぐに理解する。仕方なく一日の入院が決まり家族が呼ばれるけれどもちろんぼくは今更ひっこみがつかないので確認を放棄し眠ったふりを続ける。医者が健康に全く問題がなく脳波も覚醒状態なので特に異常がないという意味のことを家族に伝えているけれどぼくはもう死んだように眠ったふりを続ける。ぼくは故郷の母の家に運ばれそこで死なないように点滴を打たれ続けて生きる。そのころにはもうぼくは自分が本当に生きているのか、それとも夢を見ているのかすらわからなくなっている。目を開けて確かめればいいだけのことなのに、目を開いたら、膨れ上がったすべての嘘によって死んでしまうような気がする。そしてある日、ドアの外で物音と共に母のうめき声がする。しかしぼくは助けに行くことができない。その日を境に母はぼくの部屋を訪れなくなる。ぼくはもう足腰が弱り立って歩くこともできないし、空腹も感じない。ぼくという存在が夢なのか現実なのかを確かめることさえできない。そして限りなく薄くなっていく意識の中、ふいに首がちくりとしたので、焦って左手の甲で払うと確かに昆虫の感触がして「刺された」と思った。蚊だろうか。隣の人の邪魔にならないように体を無理にひねって背後を見てみるけれど座席の背もたれには特に虫らしきものはいない。ちょっと腰を浮かせて尻の辺りを確認してみるけれどそこにも別に虫はいない。気のせいだったのだろうか。でもぼくはわりに感覚は鋭い方だ。たしかに手の甲は何かに触れた。よくよく観察してみると、車窓の白い桟に、5mm程度の小さな甲虫がぎゅっと体を縮めていた。頭の長い茶色の虫だった。動く気配はない。気絶しているのか、もしかしたら死んでいるのかもしれない。あるいは最初からその虫はそこで死んでいたのかもしれない。なんとなく気味が悪かったのでぼくは立ち上がり、吊革につかまる。つかまりながら虫が動き出さないか観察を続けるぼくは、なんだか自分がひどく臆病者になった気がした。
 あんなに小さな虫の感触でさえ確認せずにはいられないなんて。

 何年かぶりに「すごくいい曲」で「すごく好きな曲」で「一日中聴き続けられる曲」を発見した。
 つまりぼくは感動した。
 Amazon musicを使い始めてから、そんな音楽は一曲もなかった。ぼくは音楽が好きだし、生活になくてはならないものだと思っているけれど、だからこそ音楽に新鮮さを感じることはほとんどなくなってしまっていた。
 件の曲はピノキオピー 氏の『ノンブレス・オブリージュ feat. 初音ミク』だ。去年投稿されているので聴くのがとても遅くなったんだけれど今聴けてよかったと思う。
 ぼくの解釈を書きたい。ぼくは普段から感想文を書かない。ぼくは感想文というものを書くのが苦手です。でも解釈したことを列挙することなら可能かもしれない。
 タイトル『ノンブレス・オブリージュ』はノブレス・オブリージュ(=力のあるものが力に負うべき責任、くらいの意味で捉えている)をもじった造語で、そこにいくつか意味がある。曲の中でミクはキャラクター(人間の代理)としてではなく楽器として使用されている。ミクは人工音声なのでブレスが必要ない。息継ぎをしない人間離れした歌い方が可能になり、だからこれはミクらしさを最大限に生かした「歌」なんだとぼくは思う。ぼくはそもそもそんな風に「〇〇だからこそできること」にややこだわりがある。あらゆる作品には、その表現技法にたどり着いた意味があるはずだとぼくは思っている。そしてその必然性がない場合、ユニークさにおいて凡庸であると評価する。凡庸でも別にいいんだけど、その点でぼくは感動するということができなくなる。この歌はミクでなければ最大限の効果を発揮できないという意味でミクの使用が最適で、だからミクを使用したという単純な事実が好きです。かつてミクの楽器的使用において別な解を見出したのはcosMo@暴走Pの『初音ミクの消失』だと思います。消失では主に歌唱速度が楽器的でした。それは楽器的ミクのために最適化されたすばらしい音楽でした。ぼくは消失の時にもおおいに感動しました。みんながミクを“人間らしく”歌わせようとしていた時、“ミクらしく”歌わせることを発見したのですから。ミクはリミッターを外したスポーツカーのように、より純粋な存在になることができました。
『ノンブレス・オブリージュ』において楽器的にミクの使用が最適だったのは息継ぎが必要ないから、なんだけれどではなんで息継ぎが必要ではないミクが必要だったのかというと、この歌が息苦しい人の歌だから。意味的にもノンブレスだから。ここで歌われている人たちは自分の意見を持っていてそれを貫き通す強さがあるなどと言われる人々の対極にあって言いたいことを言わずに我慢し続けて人の顔色をうかがいながら息を殺して生きている人たちだから。この意味的なノンブレスを楽器的なノンブレスで表現することはとてもすばらしいアイデアだとぼくは思う。我慢していたことを早口でまくしたてているみたいな感じがした。でもサビのところでものすごくエレガントでビューティフルなメロディーになる、こういう歌はもっと暗くじめじめしそうなものだけれど、すごく爽快な開けた場所に出る、これは一体どういうことなんだろうって聴きながらずっと考えていた。この歌は言いたいことを我慢してしまう人たちを肯定しようとしていて、だからとてつもなく美しくなったんだと思う。物語的には“君”という謎の存在があって、どうやらその君とは似たような境遇であり信頼しあっており仲が良いらしいけれど“君”がなんなのかは具体的には描かれていない(MVの中では小さいミクや羊のモチーフとして描かれている)。おそらく“君”は変数で視聴者がそこに適当な存在を代入して使用するものと思われる。その“君”以外の救済策はこの物語の中にはひとつも現れない。けれどそれでもなおサビは美しく爽快なのはなぜだろう。わからないけれど、現段階ではそもそも高らかに歌い上げられること自体がノンブレス・オブリージュを打破するからだというところで落ち着きました。オブリージュには義務とか責任とかの意味があって、ノンブレス・オブリージュを直訳すると「息をしない人に負わせる義務」という感じになって、つまりそれってものすごく簡単に言うと「何をされても黙ってろ」っていじめなんだけれど、だからMVの主人公はヤギの角(スケープゴート)が生えているんだと思うんだけれど、そのノンブレス・オブリージュはあってはならない義務であり責任であって、それを負わせているのは大多数とか“強者のナンセンス”の前ではそれでもその社会の中で担わされているノンブレス・オブリージュを全うせざるを得ないから声は出ない。でも歌われることできっと自分が言いたかったこととかを代弁してくれる、言語化してくれる、表現してもらえる、という部分があるんだろう。そしてそれが既にひとつの治癒なんだろう。で、それはきっとしっとり歌うより一息に歌ってしまうほうが気持ちいいんだろう。それはノンブレスにはできないことだから。