すこやかなケイオス

 タスクが混沌としている。
 
 人生には「マスト」と「ベター」と「やんなくていい」の三つの選択肢がある。
 マストは生死、衣食住、健康、社会的地位に関わる行動であり怠ると苦痛に至る。
 ベターは娯楽やスキルアップやコミュニケーションなどに関わる行動であり、やってもやらなくてもいいけどやったほうが結果として人生を豊かにする。
 やんなくていい選択肢は考えてみるととても数が少ないけれど、基本的には自分自身の価値観によってやんなくていいと思われた行動はすべてやんなくていい選択肢であり、マストとベター以外のすべての行動はやんなくていいかもしれない。たとえばシンバルをフライパンがわりにしてスクランブルエッグとベーコンを炒めたあとゴミ箱に叩き込んでバシャーンと鳴らすギャグとか、そういうことはやんなくていい選択に入りがちだと思う。ぼくも別にやりたくはないし、大概の人はきっと発想すらしないまま人生を終えるだろう。でもそういうニッチな行動はある特定の人間にはベターになり得る可能性を秘めているので馬鹿にもできない。あとたとえばぼくは嫌いな人と会話することをやんなくてもいい行動だと思っているけれど、それは人によってはマストだろうしベターであろうとも考える。人による。
 で、マストとベターとやんなくていいの三つの選択肢があるとここで定義して、結局ベターの数が膨大になりすぎて今めっちゃ俺リア充
 
 10年前くらいから書き続けて来た言葉のひとつに「リア充は創作をしない」という言葉があって、ぼくはそれを今でもそこそこの強度で信じており、根拠は色々あるものの、そもそもリアルで幸福な人間は創作に逃避することもなく、創作に救済されることもなく、創作で消費する必要もなく、創作をするテーマもなく、つまり創作をする動機自体がなく、よって創作で昇華されるものもないから、ということが挙げられると思うし、その結果として実際にリア充(プロでない限り)は創作をしなくなると思っていたんだけれど、ぼくがリア充になってしまってわかってことのひとつに、リア充は創作をする時間もない、そしてリア充は創作に割く体力もない、ということが新しく追加され信仰は盤石となる。
 これも最近たびたび書いたことだけれど忙しい。
 いつからかは厳密には覚えていないけれどやたら色々な人とかかわりを持つようになった。たぶん五年前くらいからだろう。
 ぼくは小学生の頃はひとりも友達がいないいわゆるぼっちだったから根本がぼっち仕様のメンタルを有しており、ひとりの時間がまあまあ必要な方だと思うけれど、ひとりの時間が必要というよりは人とかかわることによって消費するエネルギーが大きいというデバフがぼっちエディションの現時点でのウィークポイントだった。消耗している。
 ぼくは別に人間が嫌いなわけではなく、むしろ様々な人間とかかわりを持って話したり食べたり走り回ったりすることは楽しいし、それは学びでもあるし、趣味でさえあるし、ありがたいことだと知っている。ぼくのような高速で這いずり回る者とかかわりを持とうとしてくれる人々よありがとう。とは思うものの、根暗でぼっちでコミュ障で隠の陰であるぼくとしては唐突なリア充展開に困惑しており、そしてリア充というもののタスクの多さに驚愕し地面を高速で這いずり回っている。
 ぼくはたびたびこのような状態になり、そのたびにこのような文章をしたためてきた。ぼくはぼくのリア充展開を拒否しないし、人付き合いを減らそうとも思わない。けれど、人との付き合いによってできなくなることがあるということを自分のために再認識したいと考えている。ここでいきなり冒頭に戻るけれど、リア充であるということはベターの選択肢が膨大になるということだった。

 8月のスケジュール教えて、という人が6人いて、ぼくはその段階で既にキャパオーバーしていた。コミュ障ぼっちおじさんだからキャパオーバーしていた。6人と遊びに行くスケジュールを回した場合、週休二日のうち4分の3が埋まっていることになり、ということは一人の時間がそれだけ減るということを意味している。そしてもちろん休日だけでなく平日も突発的に野球を観に行こうとか、電話していい? とか、ちょっとバイトしない? とか、面接しない? とか、無限に関りがあるし、Lineのメッセージは気がついたら未読が50件くらいになっているし、そのうえでぼくには見たい映画とか読みたい本とかとりあえず見たいVtuberとかやりたいゲームとかが山積みで、そして掃除洗濯ゴミ出し風呂買い出しなどの家事があって、そんな中で仕事をしているわけで、日勤が続くと、一日に2時間しか自由時間がなくて、2時間なんて映画いちほん見たらしまいで、その上で、何か創作をしよう、という気持ちになるかと言われたら全然まったくならない。
 というか帰宅したら風呂に入ってパソコンの前に座った段階で寝落ちしているくらい疲れていることもあり体力および時間が全然まったく物理的にないから無理だった。
 無理です。ぼくが生きてるのすごくない? すごい気がしてきた。ひとりでお住いの労働者諸君に幸あれ。でも、それでも結局そのほとんどがベターの選択肢であるということが大事なところであり、ぼくはぼくのひとりの時間のためにあらゆる付き合いを全無視することがもちろん可能であり、それをしないということはぼくがそれを引き受けているということであり、前述のとおりぼくがそれを自ら望んでいるということも確かだった。
 ぼくは忙しい。そしてその人生をまあまあ楽しんでいる。つまりその状況はリア充だってことじゃん、とぼくは思った。ぼくには書いている時間がなく、そして書かずとも楽しいことが現実にやってくるようになった。リア充は創作をしない。ぼくはもう書かなくていいのかもしれない。二十代の初めの頃から暇な時間なんて一秒もなかった気がしていたけれど、忙しさは変質した。知り合いがひとりもいなかった東京で、ひとりきりで一日中文章を書き続けていたあの頃とは、もうずいぶん違う。ぼくにはたくさんの知り合いがいて、たくさんの人がぼくに良くしてくれる。楽しい話をして、複雑な話をして、行ったことのない場所にいき、やったことのないことをして、色々な体験をして、様々な経験を繰り返して、ひとつずつベターを潰していって、孤独の対価としての忙しい日々を得た。ぼくはもう、ひとりきりで文章を書かなくてもいいのだ。書くときはいつも必ずひとりだった。ぼくは、ひとりだったから、ひとりで出来る文章が好きだったのかもしれない。でももう、それも終わりにしていいんだ。そのことに気が付いた、今日をぼくの卒業の日としよう。

 という文章をとりあえず書いた。面白いだろうか、よくわからない。
 ぼくはリア充となったわけだけれど、こうして文章を書いている。ということは実はリア充ではないということなのだろうか。
 きっとそうなのだろう。真のリア充はそもそもブログすら書かなくなるものなのだ。
 そうでしょう? ブログを辞めていったたくさんの仲間たちを思い出します。
 彼らは元気にしているでしょうか。
 もちろん、ぼくなんかよりずっと充実した、素晴らしい日々を送っているはずだ。
 ぼくはまだ書いているよ。
 だれもいなくなっても、あの頃のまま。
 ひとりでできる文章を、ひとりきりで。