チルい無。

 思うところあって今日は何も考えていないまま文章を書きはじめる。
 いつもと同じように。
 では、いつもチルかったんだろうか。
 書いてる間はチルい。
 そして読み返すと足りなさを蝕知する。
 それはきっと足りなさをぼくがさがしているからなんだろう。
 空白を探し埋める空白を探し埋める空白を探し埋める。チェック、チェック、チェック。
 ひとは足りないものをさがしていきているのね。満ちようとして。
 満ちようとして、満ちようとすること自体が目的になってゆくのかもしれぬな。
 満ちてしまうことは、満ちていないことより、行き場所がなかった。
 ゴールにいるのにゴールに向かうことはできない。ゴールにいるから。
 チルいかチルくないかはおそらく条件付けられているんだ。これはたぶん、条件反射的に。と考えてしまう時点で、チルくなくなってきたにょ。
 神よ。
 どうか今だけはぼくのIQを6にしてください。
 そしてすぐ戻してください。

 元先輩と釣りに行ってきた。
 川に。
 神奈川の山の中の、曲がりくねった山道を超えた先にある、整理された川に。
 釣りに。
 いわゆる渓流釣りというもので、今回はルアーを使おうということになった。
 ルアーか、餌かどちらかを選べということだった。デッド・オア・アライブ。ルアーは生を模した器、餌はなんのメタファーでしょう。また考えてしまって、くらいきもちになってきたから、やめるね。
 とても早口な受付の眼鏡の中年男性が36℃くらいあるログハウス風の室内で説明してくれた内容によると、ルアーor餌を選べということだ。
 ビアンカかフローラか、みたいなことだ。
 でもビアンカもフローラも選びたくない時には、ゲームの電源を切るという方法もあるよ。
 ビアンカでもフローラでもなくモーニング娘。だったかもしれないじゃん。あなたのnは。
 それはとても難しい問題だとぼくも思うよ。でもビアンカかフローラかどちらかを選べ、と言われた時、ひとはビアンカかフローラか、どちらかを選ばなくてはならないと思ってしまうものなのだ。
 デッドでありアライブでもある。という条件は、発想が難しい。ぼくと元先輩は、餌釣りもルアー釣りもどっちもしますということを選ぶことは可能だったはずだ。けれどぼくたちは結局選んでしまった。
 ルアーを選んでしまったのだ。
 この選択のせいで、まさかあんなことが起こるなんて、いったい誰が想像しただろう?

 ところでルアーというものはよいものだ。
 かわいいものだ。
 たくさん集めたくなる性質を有している。
 ルアーはぴらぴらした金属の板みたいなやつや、小魚みたいなやつや、きらきらしたやつや、ごつごつしたやつや、いろいろある。
 元先輩が中古釣り具店という、釣りをしたことがない人からしたら存在すら知りえなかったお店に連れていってくれて、そこで安いルアーをたくさん買いました。
 200円とか、300円とかで買えるよ。
 そのルアーを、専用のプラスチックの小箱に並べて入れると、きれいだよ。小箱は300円くらいだったよ。
 ぼく、いつから宝物を集めるのをやめてしまったんだろう。
 小学三年生くらいまでは、宝箱があった。はっきりと覚えている。その中には近所の駄菓子屋の前にあったガチャガチャから出てきた小っせえ剣とか、お父ちゃんが買ってきてくれたロックマンのキーホルダーとか、夜になると光る骸骨の人形とか、ドラクエの勇者とかが入っていて、ぼくはその宝物を深く愛しすぎていた。あまりにも愛しすぎており、それは執着となり、それは憎悪へと至った。ぼくはいつか自然とおもちゃなんか嫌いになるはずだ、と小学三年生ですでに自らの未来を先読みしていた。しかしぼくはおもちゃを嫌いにならず、むしろ宝箱から離れたくないという気持ちさえ感じていて、そしてその自分をいささか常識から外れているのではないかと恐怖した。ぼくの愛はぼくをひどく傷つけた。そしてある日、大人になるためにはおもちゃを捨てるしかないと決意して、たいせつなものを台無しにしてしまったんだ。何かを手放しただけで大人になれると思っていたわけではない。ただ宝箱が幼稚さのメタファーに見えただけだ。幼稚さでさえぼくの一部なのだということを、大人になったぼくなら理解できるけれど、その時はまだ半分は類人猿の名残がある小学三年生だったのだ。
 チルくなくなってきた。
“何を見ても何かを思い出す”

 ルアーで釣りをした。最初ぼくはルアーを投げるのがクソ下手クソだった。どれくらい下手かというと目玉焼きを作ろうとして茹で卵を作ってしまうくらい下手だった。この例えくらい下手だった。まっすぐ投げようとしたら隣の川に落ちたということも二度や三度ではなかった。でも釣りも終盤にさしかかると大体狙ったところに投げられるようになった。どんなあほでもやってればうまくなるんだなと思った。それは救済だった。
 川は整理され整備された釣り堀用の川なので、放流された魚がそこらへんを並べた棒のようになって泳いでいる。だから簡単に釣れるだろうと思っていたら最後まで一匹も釣れなかった。枯れ葉は5枚釣れた。元先輩は1匹釣り上げた。たいしたものだ。今日は延べ5時間はずっとルアーを投げては巻き投げては巻きを繰り返したのだ。5時間もだ。それなのにぼくはクソ一匹も釣れなくて先輩はきちんと一匹釣り上げたのだ。これはたいしたことなのだ。デッド・オア・アライブ。やってみたらわかる。全然釣れない。見えているのに釣れない。でも世の中そういうものかもしれない。釣りはほんとうにいろいろなことをおしえてくれます。ほんとうにいろいろなことを。
 日中は32℃くらいあって山の中でもとても暑かった。熱中症になってもおかしくないくらいだ。アブラゼミの暑苦しい合唱が充満している。川のせせらぎ。強い風が吹くと川を取り巻く巨大な森がざーっと葉を鳴らしてまるで生きているようだった。乱反射。川に素足で入って釣りをしているおじさんもいた。
 今日は20日だ。今不意に気が付いた。生卵の賞味期限が今日までだ。ぼくはゆで卵を作ることにした。ぼくはゆで卵だけはうまくできるのだ。それから馬を撫でるのも得意だ。鳥に噛まれるのも得意だ。あと5分でゆで卵は茹で終わる。その後は? もちろん流水で1分冷ますのだ。ぼくはゆで卵に関してはほぼ完ぺきにレシピを記憶している。こういうのを才能と呼ぶんだろう。

 帰りの車の中で、元先輩が言った。
「俺にとって釣りは宗教みたいなもので、釣りをすることで浄化されるなんかがあるんだよ、変だけど」
「いやそれわかるな、わかります。わかりません、そういうのがぼくにはないんですよ。ストレス解消法……みたいなもの。これやったらすっきりしたーみたいなやつって、ないんですよ。ずっと探してるんですけどないんです。ひとつもない。落語もjazzも酒も映画マンガゲーム小説散歩ランニング水泳筋トレyoutubeなにをしてもぼくはストレスが溜まって疲れて考え込んで鬱になって疲れました」
「なんかさ、何かをしようと思ってすることってたぶん疲れんのよ。だから何も考えずになにかするっていうか、何も考えずに何もしないっていうか、そういうことなのよ。温泉と釣りね、俺は」
「完全にわかりました。ぼくもつまりそれがチルということか。無ってチルいな。だから考えないとか何もしないとかをぼくはやっぱり得るべきなんだな。ぼくはこれをやろうとかあれをやろうとかこれをやったら何が起きるとかあれをやらないと損だとかそんなことばかり考えて満たされようとして満たされようとすること自体が目的になってしまっていたのかもしれないな、そうして空白を埋め、空白を埋め、空白を埋めることばかり考えて空白がなんなのかさえわからなくなった。でも空白は尽きないんだ、ぼくがそれを自ら探し出しているのだから、埋めるために。ぼくはただ空白の前ででーんとあぐらをかいて座っていればそれでいいんだ。ぼくはそれが生きているってことなんだ。ぼくは有でなくともそれが生きているってことなんだ。ぼくは空白を空白のままにしておいていいんだ、空白を空白のままにしておくってことが、つまり休むってことの意味じゃないか」
「今日さ、せめて一匹は釣らせてあげたかったよ」
「そうですね、そしたらぼくは生まれてはじめて魚料理ってものを作ったかもしれませんね」
 ぼくは無ってチルい、という言葉を脳裏にしっかりと書き留めた。それは全然チルくはなかった。

 最後にゆで卵のことを書こう。
 6個茹でたうちの1個が爆発してしまった。
 なべに入れた時に亀裂が入ってしまったみたいなのだ。
 でもぼくはそれを失敗したとは思っていない。
 今までにも何度か同じことが起きたけれど、それが失敗したとは思っていない。
 ストレスも溜まっていない。
 ぼくは爆発したゆで卵も普通に食べるからだ。
 流水。せせらぎ。エアコンの風がぼくのほほをなでた。
 せかいはあるがままで完璧な姿をしているものなのだ。
 おお、神よ。
 そろそろIQをもどしてください。