待ちぼうけによる吐き気

 珍奇な事情があり横浜へ飛んだ外黒。
 そこで彼を待っていたのは知らない人の集団だった。
 知らない人間に対して耐性のない外黒は、果たして生き残ることが出来るのか。
 力の限り、生きろ外黒!
 
 外黒は横浜を知らない。
 彼は東京に住んでいるから、遊びに行くなら東京で充分だし、仕事で訪れることもついぞ無かった。
 何度か友人や家族と共に物見遊山の町散歩をしたことがあるくらいの知識しかなかったから、横浜駅構内の改札前の壁一面を覆わんばかりの巨大マップを雑踏にもまれながら懸命に眺めている姿はむしろ納得のいくものであったが、どこか哀切の風情を帯びていた。
 彼は時折気まずげに頭をぽりぽりかいたり首を傾げたりしながら、うーんうーんと唸ってさえいたのである。外黒は生来の方向音痴であった。
「命がうすい」と外黒は呟く。「しかし無数のダンジョンを攻略してきたこの俺だ、地図なんて必要ないまである。俺はたしかに方向音痴そのもの。地元のスーパーマーケットで迷うことさえ可能だ。しかし、だからこそ生き延びる術を身に着けているのだ。方向音痴には方向音痴なりのダンジョン攻略法がある! 大丈夫! そうやってずっと生きてきた実績が俺の背中を押している! すくんだ足に力が戻ってきた! おお、ありがたい! 神よご照覧あれ! 俺はまた歩き始める!」と外黒は思った。
 外黒は闇雲に歩きだし、目的地とは別方向の出口を出、喧騒の大都会横浜をぐるり見渡したあと「ちがうわ」と呟いて地下道を引き返し始めた。それから暫く「どうして駅の看板って見づらい方向に矢印ついてるんだろうなあ」と考えた。そういうことを考えている間に、偶然にも目的地の近くの出口から出た。彼のダンジョン攻略法は8割を運に頼っていた。
 炎天下の横浜は適度に人が少なく、しかしながらビルディングや商業施設は適度に揃っていそうで、過ごしやすそうな町に見えた。
 外黒は携帯で検索した喫煙所で煙草を吸った。とてつもなく暑く、狭い喫煙所だった。「まるで罰を与えられているような気がしないか。ピラミッドを作らされている奴隷になったような気がしないか。砂浜に打ち上げられた遭難者になった気がしないか。俺たちはどうしてこんな場所に立っているんだ」と外黒は思った。
「苦痛を得るためさ」と外黒は太陽の光に目を細めながら思った。「苦痛は虚無より居心地がいい。少なくとも指向性がある。導いてくれるってことだ、次の行動を」
「そうかもしれない」と外黒は考えた。「とても単純でよい」
 外黒は煙草をもみ消し、コンビニへ向かった。涼みに行ったのである。
 因果の輪が閉じる。
 
 珍奇な事情のために巨大ビルディングの56階を訪ねた。
 外黒は周囲をぶるんぶるんと見まわしたあと、目的のドドメ商事の看板をみつけた。近づく毎に心臓が高鳴り、緊張が高まり、面倒くさいなあという気持ちが高まった。どうしてこんなことになったんだろう? 「命がうすい」と外黒は思った。
 狭いドアの横に「御用の方はベルを鳴らしてください」と書いてある。
 黄色いボタンを押すとピルルル……ピルルル……と、どこか遠くで電子音が鳴った。
 しばらく待っていると、通路の奥から美しい女性が歩いてくる。ポケットに溶けない氷が入っている女性だ。
「何か御用ですか」と女性は上目遣いで言った。
「たいした用事ではないんですよ。だって俺はどっちでもいいと思っていて、求めることをやめてしまっているんですから。でもそういう状態でいることを、このドドメ商事の方々はお認めにならないでしょうね。前へ、もっと前へ、人より前へ、他社より前へ。そうやって背中を押し合って進む巨大な群体の一番後ろで、引きずられてぼろぼろになっている人のことを俺は思い浮かべるわけです。だってそうでしょう、一体どれだけの人間がこの会社を辞めていったのか、俺は知ってしまっているわけですから」と外黒は思った。それから「15時に予約した外黒でげす、へえ」と言った。
 ここに不幸な乖離がある。個人と社会。思考と行動。正常と異常。ミサイルがビルの上空をかすめて海に落ちる。ベランダで小学生が息を殺している。亀の置物の上に亀が登っている。死んでいった人達が思い出の中でいつも笑っているのなんでだろう。巨大な裁ちばさみがじょきんと大きな音を立てる。
「ではこちらへ」と女性は言う。
「なんだか嫌な空気の会社だ」と外黒は思う。従業員の笑い声や話し声があちこちから漏れ聞こえてくるし、壁が多く迷路のように狭苦しいし、雨が降った日のバスみたいな匂いがする。「もっとも、良い空気の会社なんて見たこともないけれど」と外黒は付け加えた。
「しばらくここでお待ちください」と女性は言う。「いつもそうしてきたように」
 と外黒は思う。

 ドドメ商事で外黒は知らない人たちに次々と質問されたり槍で刺されたりしたあと、前進性の価値観とでも呼ぶべき気づきを得た。それはマジョリティー的価値観であり、使いようによっては割と生きやすさを増しそうなアビリティであるようだった。価値観はアイデンティティと紐づいて人生の方向性を決めるだけの概念ではなく、仮面のように便利に付け替えることが可能なのでは? というよりもむしろそれをこそ外黒は実践してきたのではないか?
 ビルディングを出、それから揚々とドトールに入りロイヤルミルクティーのアイスをLでオーダーし、地下に降りて今時珍しい喫煙席で電子書籍を読み始める。そしてそのまま4時間、読書を続けた。煙草は10本なくなったし、ロイヤルミルクティーは二杯飲むことになった。外黒は人を待っていた。それは外黒の先輩だった。けれど待ち人からは一向に連絡が無かった。外黒の周囲の客は何度も入れ替わった。テーブルの上がミルクティーの水滴でびしょびしょになった。トイレには3回行った。外黒はついに本を読み終えてしまった。時刻は20時で、もうすっかり夜だった。尻が痛かったし、長時間集中して読書をしたので吐き気がした。
「えっ!? なんで待ってるの!?」と先輩は言った。
 外黒は何も言い返せなかった。
 なんで待っているか?
 待つなと言われなかったからだ、と外黒は考える。
 いや、そうではない。外黒は「なにも考えていなかった」のだ。
 待ちぼうけることに、なんの疑問も抱いていなかったのだ。