移動する視点

 夜勤明けの電車の中でこれをしたためている。巨大な正方形の建屋を出ると町の陽の明るさに目が痛んだ。でかい山羊の溜め息みたいなぬめる風がしきりに吹いていた。工事現場を覆っていた白い強化繊維の覆いが部分的に取り払われ、真っ黒な土が爆発した広場が見える。広場の入り口には青い作業服を着た初老の男性が肩を落として突っ立っていた。この世の果てのような光景だった。エレキギターが粉雪みたいにきらきら鳴っていた。ぼくはマスクを外して息をした。土の匂いとトリートメントの匂いがした。他の匂いは何もなかった。

 電車の中で盛大に寝てしまういつものことだ。21時間睡眠無しの状態は眠い。ただ寝ないのではなく仕事をして神経が張り詰めているわけだからなお眠い。渋英で東京とんこつを食べる朝10時30分。朝からラーメンを食べているぼくはラーメン新法について考えている。はじめて行く店でカタメとかコイメとか言う人間は懲役2年です。それは礼儀にもとる行為でありラーメン屋の思想・人権を踏みにじる行為だからであり、例えるならばコミュニケーションのない相手を突然抱きしめたりしちゃう輩と同程度の罪だからです。どうして何もわからない状態で、なんの根拠もなくカタメとかコイメとか言えるのか、ただ言いたいだけなんじゃないのか、あるいは口癖みたいなものなのか、どっちにしろもっときちんとラーメンと向き合ってほしい(ラーメン屋自身がカタメとかを推してるならいい)。ラーメン屋は自分が一番おいしいと思っている味をデフォルトにしてるんだからやはり最初にそれを食べるのがフェアなんじゃないのか、とぼくは朝から熱血していたのだった。ぼくは子供の頃からラーメンを食べまくって育ってきた。父も母もぼくをラーメン屋に連れて行きラーメンを食べさせた。ぼくはラーメンで育った。主食はラーメンだしソウルフードもラーメンだし思い出の味もやはりラーメンだ。だからぼくはラーメンに敬意を払わない人間には敬意を払えない。ぼくはまずいラーメンもうまいラーメンもすべて等しくあいしている。ラーメンのますますのご活躍をお祈りしているし、ラーメンには格別のご高配を賜り厚く御礼申し上げている。ラーメンは宇宙でラーメンは奇跡だ。

帰宅して映画を1本見て寝て起きて風呂に入ってからまた電車の中でこれを書いている。ぼくの特徴であるところの一種の休まなさというか、全てが続いてしまう癖というのか、体感的には何もかもが途切れなく迫ってきている感じなのだ。常にタスクが表示されていて心が休まることがないということなのだ。ぼくはそのために非常に疲れてしまう。夜勤明けで早朝に眠りまた夕方から電車に乗って出かけて、それにしてもさっきのラーメンに対する異様な熱は一体なんだったのか、今読み直して見るとやはり明けのテンションという感じがして、それがこのあらゆる状況で書くことの重要な意義のようだと思った。あらゆる状況、あらゆる精神状態でぼくはものを考えていて、それは一貫してはいないし、それが自然だ。自然だ、ということを知りたいし納得したい。

そういえばラーメン屋から家に向かう電車の中で、僧帽筋だけがめきめきに発達した男性を見かけてピットブルみたいだった。Tシャツから僧帽筋だけが飛び出していて、いったいどんな体の動かし方をしたらそうなるんだろうと思った。

もう窓の外の真っ暗な電車の中には、それでも沢山の人間達がだらしなく座り込んでいる東京の夜。ぼくは移動している。AからBへ。BからCへ。

ペンラ

書いている、今日はアルコール性飲料を6杯か5杯か、そんくらい飲んだ終電間際の山手線でこれを書いている2325時。僕が考えているのは、というより触知した真実は、ナチュラルボーンコミュ強はやっぱつええなあということ。ぼくは生粋のコミュ障として生まれ、であるが故にある程度のコミュニケーションを学ばざるを得なかった、いわば培養された養殖のコミュ力で生きてきて、それでもなお人がそこそこ話しかけてくれたり外黒のパワーになってくれたりするのは培養の底力という感じがしてだから自らがリア充(マージンがないの意)であることを驚嘆しているわけなんだけども、ナチュラルボーンコミュ強が有するカリスマの発動にはやっぱ敵わんなあとなんとなく考える。もちろんコミュ力においては、という意味だ。ナチュコミュ強はやはり人を惹きつける力、カリスマ・アイドルみたいな力が確かにあるし、僕も多少そこに惹かれはするし関心もするし助けられてもいるものの、でも、ぼくはそういう部分を本当に好きかというとこれは別問題なのは、言わずもがなのことなんだけど。

今日は生まれて初めてペンライトを買った。ビジネス鞄に入れたので、いつでも光らせることができる。

冷えた水は世界で一番うまい

 伝説のすた丼渋谷店でこれを書いている。

蒸し暑い。本当に暑い。たぶんエアコンがぶっ壊れている。カウンター席の間隔は狭く、隣の席のむくつけき男子共の肩とぼくの肩が今にもぶつかりそうだ。これが生きるってことの現場だ。暑く、そして食らうこと、狭い場所に押し込められ、ひたすらに待たされ……ぼくたちは動物だ。ただただ飯を食らい世界を放浪する動物に過ぎないんだ! という気持ちが高まってくるにんにくの匂いと爆音のjpopと蒸気とさ

 伝説のすた丼を出て、帰宅ラッシュの電車内でこれを書いている。

目の前には髪の薄い筋肉質の男性が本を読んでいる。そして暑い。車内もすた丼に引き続きエアコンの風がほぼ無くなっており、これが9月の罪だ。9月を裁け。隣に立っているサラリーマンがにじり寄って来たので仕方なく連結部分にめり込んだ。いつもだれかのためにこうして席を用意しておくのか。ぼくはどうせ天国行きだ。

尾崎放哉の有名な自由律に(咳をしても一人)という素晴らしい句があるが、対になる句を考えた。(一斉に食べ始める二十人)何かを食べている人間の集団というのはどうしてあんなにうるさく感じるのだろうな。それはきっと生命が、生きるということを音以上に表しているからなのだろうな、食べるということが。それにしても昼食を抜いたあとのすた飯は非常に美味いものだ。唐揚げも揚げたてで衣がさくさくしていて固すぎず柔らかすぎずで丁度いいし、濃い味のすたみなの合間にたくあんを食べるとこれがまた素晴らしいさっぱり感で、最後に熱い味噌汁を一気にすすったあときんきんに冷えた水が一番うまい。冷えた水は世界で一番うまい。人間はうごく水たまり。

マスクをしていると顔も熱くなるけどそれ以上に眼球への蒸気ダメージが多すぎてぼくはそれがずっと気になっている何年も気になっている。眼科が蒸気で、余計に乾く、という症状が発生する。

 そして今、帰宅してこれを書いている。いろいろな場所で書いてみると、書かなくていい事までつらつらと、氷上をスケートする時みたいに、慣性で書き続けるところがある。書きたいとかも思っていなくて、ほとんど別のことを考えながらなんとなく書いている。そしてはじまったときと同じくらい何も考えず何も思わずに文章が終わる。

状況・精神状態

色々な精神状態で書く試み。

現在はお昼休みである。今日は気分が重いので食堂には行かないこととする。食堂には種々様々な人間がおり、なんか疲れるので元気な時にしか行かない。元気な時に行ってもあまりご飯の味が分からない。集団の中にいるとエネルギーがすり減る。これはぼくがあまり喫茶店に行かない理由でもあるし、対人恐怖的な側面の現れでもある。生きづらいと言えば生きづらいのだけれど、大丈夫なときは大丈夫なので対応は放置されている。その時々の状況・精神状態によって行動をアジャストしていく他ない。ぼくには対人恐怖に対応する器官が不足しているのだから仕方ない。ある種の感情を人より過剰に受け取ってしまうことは、脳のユニークな特性である。それは個性と密接に関係している。ぼくの個性は、特に個性的というわけではないんだけれども。

さっきは少しミスを犯して焦ってしまった。すぐにリカバリできたので良かったけれど、小さなミスが大波乱を巻き起こすことは良くあることなので気をつけたい。気をつけてもミスは起こるにせよ。

平和な毎日がやってくればいいなと思うと同時に、平和な毎日を恐れてもいるなと思う。

 

ここからは電車の中で書いている。

同僚とアフターファイブの茶をしばきあげ、遅めの電車の中で胃がもいもいしている。カフェインをとると胃がもいもいする。ロイヤルミルクティーでさえこうなのだから、コーヒーなどを飲むとフラジャイルな胃は破壊される。今日も電車には老若男女種々様々な人間がいる。輝度の低い蛍光灯の下、誰かからバニラのにおいがしている。足が細長い人もいるし、手に紙袋を下げている人もいる。なんとなく弛緩した空気の中、網棚に置いた鞄からライターがぽーんと飛び出して床で弾んだ。ぼくはしゃがんでそれを手に取り、鞄の中に戻してチャックを固く閉じた。どこからかブルーハワイのにおいがしている。誰かが咳き込む。窓の外を暗闇が流れる。

ぼくはリア充だけど、陰キャコミュ障おじさんだ、ということに突然気がついた。このふたつの要素は同時に存在していてもいいんだ。ということは、陽キャコミュ強でも非リア充だという状態は充分に考えられることだ。いや、ぼくはリア充ではない。ぼくの状態を正しく現すなら「イベントが渋滞している」だ。とにかく種々様々なイベントが押し合いへし合いして迫ってきているだけだ。充実しているのではなく、余裕がないだけだ。そしてこの状況をぼくは過去に願ったことがある。孤独を感じられた頃に。

昨晩、とても久しぶりに小説を少し読んだ。気持ちよい。

ツムツムのハートがたくさん送られてくる。ツムツムをやっている人はIQが低い人に見える。完全な偏見なんだけど、でも、ツムツムをやっているぼくはきっとIQが低い。そういえばずっと前、電車の中でツムツムをしているおばあちゃんを見たことがある。スマホを持って優先席でツムツムをする白髪のおばあちゃん。あの時のツムツムはなにか特別な感じがした。

 

 

 

やにわにダークネス

電車の中でこれを書いている。

電車の中は独特のにおいがする。蒸気みたいな感じの、人間の凝縮された気配みたいなもの。21gの魂が少しずつ染み出した空気。白いスニーカーのソールの脇に、泥まみれの長いごみが付いている人から目を離さない。みみずだろうか。それとも昆布かもしれない。面影かもしれない。

ぼくは記憶力に乏しく、集中力がりんご3個分で、でもぼくの魂はきっと2kgくらいある。ぼくが死んだら死体の体重を測ってくれたら、きっとそれくらい軽くなっていると思う。しかし命はバルーンのよう。そして今、胸の奥の重力変動源は質量を増してヘドロのようにへばりつく。

外黒さんが言うんだから相当なものだと思っています、とぼくをよく知らない人が話してくれた、ぼくをよく知らない人の根拠の薄弱な言葉は、それでもわずかに昼下がりのアイスロイヤルミルクティーのようになごんだ。それはまさしくティータイムのティーのようだった。外黒さんが我慢できないことなんて、誰も我慢できないと思います。いやそれはまるでぼくがなんでもかんでも我慢しまくっているおばかさんみたいな言い草に聞こえないこともないんだけど、いやでもそれは事実か。事実だからいいか、とすぐ諦めた。ぼくは我慢マン。我慢マンは我慢し過ぎて死ぬマンでもある。あの人若いの? 若くは見えないなあ、と話しかけられて、ぼくはエエ、エエ。と愛想笑いしながら頷いた。若いか若くないか、なんて気にしたことがなかったから、これが親父ギャグってやつかと思えるようになるまで5分かかった。ある種の人々は、パワハラとセクハラに依存して生きている。気持ち悪りぃなあちょっと黙ってろよとぼくは思う。しばらく黙ってろよ、風が頬を撫でるまで。

きりんの首が長いのは高い木の葉っぱを食べる為だと思っていたけど、別な説も聞いた。🐎足が長くなったからだ🐎という。ぼくはそれを聞いて心底感動した。とても、素敵だ。ぼくがぼくになったのはきっと、ぼくが知らない理由があるのだろう。ぼくの足はみじかい。

傷つくと尖る。傷つくと尖るんだなあとぼんやり考えて歩いた。蒸し空気、曇天を透過する紫外線、26℃は夏の残骸の9月。幻みたいなふにゃふにゃのアキアカネが何かを探して彷徨っている。傷ひとつないものとは、つやつやでつるつるで丸っこくてすべすべで照り照りだけど、傷つくとざらざらでがりがりでばりばりで、撫でると手に刺さったりする。人の心も同じだ。傷つくと尖る。傷つくと尖る。

行きつけの立ち食いそばで食べ慣れたかつ丼定食もりそばを食べているとき目の前の窓の桟にごきかぶりが佇んでいるのが目に入り、しばらく見つめ合ったあとどうしようかなあと思った。なにがどうというわけではなくどうしようかなあと思った。この店にはまた来るし、もりそばもかつ丼もうまい。しかしどうしたらいいんだろうなあ。この虫はぼくよりずっと強力な常連だ。人間より長くずっとしぶとくこの地球をサバイブしてきた一族なのだ。

今日のフィナーレ。電車の端っこの席に座っていたら隣に誰か立ってその人が髪の毛の長い人でぼくの首筋で毛先を遊ばすな。めちゃくちゃくすぐったくて避けようにも避けられず口元がへらへらしそうになるが、きっと状況を知らない人から見たら急ににやけだしたやばいやつみたいに見えてしまうだろ。ぼくは心頭滅却し親が20人くらい死んだ人の気持ちになろうと努力してみたがさらさらの髪の毛が執拗に首筋を責め立てる。あまりのストレスに発狂したぼくはこうして文章を書いている。ぼくらの狂気はいつだって野生のひまわりみたいに狂い咲いていた。

ひさしぶりにガリガリくんを食べた。なぜか死んだ犬のことを思い出した。小柄な雑種で、蛇に噛まれて死んだのだと言われた。母は小学生のぼくに死体を見せたくないと思い、ぼくが帰宅する前に埋めてしまった。そんなことをするべきではなかったのだ。だれにも、ぼくと犬の最期の別れをさまたげる権利はなかったのだ。死を隠すのは、死を奪うのは、死んだものにとってさえ罪悪であるとぼくは思う。だれからも死を奪ってはならない。ガリガリくんをたべながら、そんなことを考えた。

 

 

理想のブログ

今週のお題「おすすめブログ紹介」

おすすめブログ紹介

 おすすめのブログを紹介してもいいという題でうれしくなってそれではおすすめのブログを紹介しよういう気持ちになったので聞いてください『Official Machidakou Website』。
 現代は有名人のブログやTwitterなどは当たり前の前提で、SNSの活用がすでに業務の一部になっている面があるとはいえSNSをやっていない有名人などがいるのも多様性であり当たり前でありやってなくても別に全然問題ないし、なんならそれが作家性のつよい職業であるならばぼくは、SNSなんてやっていない方がむしろ信用できるまであるよな、とさえ思っていて、だって大御所作家のTwitterがものすごく幼稚な言葉で埋め尽くされていた時の尋常ならざるがっかり感といったら絶望でした。権威的であるべきだとは思わないけれどだからといってあまりにも「ただのおじさん」であるならその姿はミスティフィケイションされ広告され特別性を付与された作家性にとって傷でしかないとぼくは思う。作家とは個性的であった方がよいとぼくは考えており、作家に対してそのようなロマンを持っており、希望を抱いており、そっちのほうが面白いと思っており、だからそれを裏切られると嫌な気持ちになるが、だからといって作品のようなキャラクターを作家に求めているわけではなく、その人らしさが出ているならそれでいいと思っている。ぼくが避けているただのおじさん的作家像というものは、つまりただのおじさんの嫌な部分が出ている人のことで、あまりいないタイプなんだけれど、いる。今はSNS上でのふるまいについて書いていて、その生活の実態に関してはどうでもいい。実際にどういう人間かということは気にはなるにせよ、すべての人間は所詮人間であり、されど人間であるがゆえにあまり興味を抱いていない。大抵の人間はただの人間だし、作家と暮らしたことがある身としては作家なんてただの人間でしかない。そしてただの人間にはぼくはあまり興味がない。つまらないからだ。
 それでようやく立場を説明し終えたので件の『Official Machidakou Website』の『DAIRY』について書こうと思う。
 ここに記されている文章は紛うかたなき町田康さんの文章であり隙が無く無駄がなく、それでいてほのかにおもしろい。

 

次に回したい人のidを入力(2人)

id:やりたい方

id:やりたい方

ばくはつする生活

 爆発している。爆発させている。
 
 渋い話をして、その中には多めの嘘を混ぜた。
 混ぜることになった。どうせ嘘をつかなければならなくなると思ったから、でも出来るだけ真実に近い形で嘘を考えた。考えたくはないし、ぼくの代わりに嘘を考えてくれる人が現れるくらいには嘘が必要な局面で、ぼくは嘘がめちゃくちゃ下手だった。嘘の才能がないし嘘の努力もしてこなかったし嘘のメンタルも鍛えていなかった。それでもなおぼくは嘘をつき、その嘘はある程度は成功した。面倒くさいし人生が少し嫌になった。そして人間の生活が面倒くさくなった。それから、結局はぼくが選んだ道だということを改めて認識する。生きるのは楽じゃない。他人の感情の波動に揺らいでおびやかされていつまでも泳ぐ機能のないプランクトンの気持ちがわかった。
 
 同僚と飲んだ。てんぷらとそばの膳を食べそれからビールを何杯か。ファミレスでのことだった。ぼくは疲れていたし同僚も疲れていた。愚痴を言い合ったりする機会は必要だと思う。喜びも苦痛も「感情が高ぶる」という点に於いて消耗が増加するのは体感として心得ており、どちらも外部に委託することで負担を減らすことがある程度は可能だ。必須ではないにせよそのスキルは有効であり、気休めになる。そして気休めを怠った人間は気が死ぬ。だから気を休めることは非常に重要であり、ぼくたちは気休めを言い合って、それから過去の面白い話を言い合ったりしながら赤い顔で真っ暗な道を歩いて家に帰るのだ、しょぼい街灯の下をそれでも希望とかに向かって。
 
 たくさんのことをしたなあという実感があって、それは何もないよりはマシだと思うけれど、だからといってたくさんのイベントが常に幸福であるかというと疲れる。Vのコラボカフェに行ってきた。あまり休日に会わないタイプの人達と初めての場だったので多少は変な空気になったしなんかみんなごにょごにょしちゃうし視線は合わないし、端的に初々しい雰囲気となったが、コラボカフェに入ってしばらく経つとすっかり空気にも慣れ、壁に張られたでっかいキャラのイラストやモニタで始終流れているキャラソンや巨大パネルの横で記念撮影などをしてIQが下がった。Vに囲まれた中でVの動画などを見てたいそうアホであった。ぼくはなんというのか、だんだん記念撮影とかに慣れてきていた。人と会って人と話して人が泣いて人が怒って人が笑って人が帰って人がまた現れて、そういうのを繰り返していたらだんだんその場を楽しむ、という度胸がついてきた。萎えている部分もあるし馬鹿らしいなあと思うこともあるけれど、だからといって拒絶的な気分になることもなくなってきた。素直に楽しもうと思うし、素直にやりたいことがやれる状態ならやろうと思えるようになった。これは一種の「殻を破った」状態なんだと思う。いい歳だから殻も割れて剥がれてどっかいったのかもしれない。殻があることは悪い事ではないけれど不自由なことだと思うし、殻的に見える態度がそもそも虚無であることもありそのラインは他者に適応できない。そのあとでみんなでダーツをして今年一番笑った。とても面白い一日だった。
 
 Vのコラボ映画に行ってきた。全員がそのキャラクターのファンだ、という状態ははじめてだった。会場にいる全員の推しが同じだ、というのは異様で、しかし何故か悪い気持ちではなく、ちょっとした仲間意識さえあり、すこし安心する気持ちもあった。「隣を見て。いいから隣見てみて。その人も同じファンだよ」と言ってVは笑った。ぼくと隣に座っていた眼鏡の男性は一瞬ぎこちなく見つめ合い、それから油の切れたロボットみたいにスクリーンに顔を戻した。隣に座っていた男性からぼくはどのような人間に見えただろう。ちゃんとVのファンに見えただろうか。キャラクターのTシャツくらい着ていけばよかった。ファンであり仲間であり、そして他人である。面白い経験だった。映画はアクションアニメ映画で特に何か特徴的な点があるというわけでもない。普通に面白かった。ぼくは誰かと話したくなった。でも何を話せばいいのかなんてわからなかったし、きちんと考えると話したいことなんて何一つないようにも思われた。映画が終わってVがスクリーンから姿を消すとファンがぞろぞろと映画館を出て行く。ぼくはしばらく座ったままこの人たちが同じものを好きだという状況をどう解釈したらいいんだろう、と考えていた。それはつまり、同じ言語で語ることができるということだ。しかし、だからといって会話したいということでもないんだとぼくは思う。ぼくたちは経験を共有した。それは歴史を目の当たりにしたということだ。ぼくたちは同じ場面を、それぞれ個々の事象として獲得したのだ。似てはいるし、共通点は多いだろうけれど、それはユニークな経験だ。ぼくたちは仲間であり、そして他者である。ファンである限り、またどこかで会うこともあるのだろう。その時をぼくは楽しみにしている。だれもひとりではない。
 
 疲れた。楽しいことは楽じゃないんだって甲本ヒロトさんが言ってた。それは本当に本当だと思った。楽しいし、未来に向かってダイナミックに生活が爆発している。何もせずに人生が終わっていくのだろうと思っていた過去の自分が未だに驚いている。ぼくは今のぼくになれていないし、10年前からずっと生活は爆発しつづけている。故郷の家がなくなって、東京に来なければならなくなったあの日からずっとずっとずっと。