サイレンス

 今日は曇り空で、雨が降るかもしれないと思っていたから、斜め掛けのウエストバッグの中には、いつまでも使われない折り畳み傘がごろごろしていた。
 僕はイヤホンでHardfloorの"The Art Of Acid"を聴いて電車に乗っている。クラシックなAcid technoで、音の使い方に嫌味がなく美しく論理的で、心の奥を覗き込むような深さと広がりがある。シンプルでわかりやすい音楽だけれど、他者性を排除しているようなところがある。劇的なクライマックスが無いところもよい。内向的なダンスミュージック。
 今日のことをずっと考えてきた。自分がどうするべきかを考えていた。どうなるかを想像したし、何をしてはいけないかを想像した。しかしいつものことながら、事実は想像とは別のところへ僕を運んでいく。なるようになるし、なるようにしかならない。僕はそれが好きだ。飛び込んでみることは、よい事なんだと思う。窓の外ばかり見てすごした小学4年生の夏休みの僕には想像さえ不可能だった人生を既に生きてしまっている。
 山の中で横転事故を起こして、ひっくり返った車の割れた窓から外に這い出した日のことを思い出す。会社の後輩と吊り橋から川に向かってバンジージャンプをしたことを思い出す。ギターを持ってまぶしいステージに出たことを思い出す。嵐の日に沖に向かって泳ぎ続けた日のことを思い出す。父の死を思い出す。僕はまだ生きていて、必ずこれからも何かが起きる。面白いなあ。
 電車を降りて「こんにちは」と僕は言う。
 灰色の雲がぱーっといなくなって、光が降ってきた。
 その時、僕は音楽を聴いていなかった。