雑草魂

 通勤途中、信号待ちで立ち止まり、ふと足元を見ると、ガードレールの足が埋まっている狭い土のスペースから、でかい草が生えていた。
 紫色の茎は固く頑丈そうで、根本はちくわくらい太い。まっすぐ伸びて50センチほどの高さのところに黄色い花のつぼみが2、3個ついていた。
 根本にはぎざぎざした形のまがまがしい葉が地を這うように広がっている。通行量の多い大通りの沿いに生えているからか、全体的に薄汚れてくすんでいる。
 タンポポに似ているけれど、あまりにもサイズが大きすぎた。生える姿は不遜で反抗的であり、自信に満ちている。後悔なんてしたことがないに違いない。なんとなくぞっとする草だった。
 変な場所に生えているのだから、この草は雑草なのだろうと思われた。地面のほとんどをアスファルトやコンクリートに覆われたこの町で、これほど大きく育った雑草はあまりお目にかからない。よく今まで誰にもみつからずにいたな、と思った。
 雑草は生える場所を選ばない。どこからでも生えてくるし、あらゆる手段で生き延びようとする。そういう雑草魂が僕は好きだけれど、恐ろしい感じもする。
 何をするつもりなのか分からない、テロリストのようだ。

 田んぼに稲を植えると、稲にそっくりの雑草が生えてくると聞いたことがある。
 雑草イネと呼ばれている文字通りの雑草だそうだが、この雑草イネ達は栽培される稲に擬態して生き残る。素人の目には雑草イネと栽培される稲の違いは全然わからない。
 水田は雑草イネにとっても理想の生育場所だから、そこに生えたい。しかし人間は雑草イネが邪魔なので殺そうとする。雑草イネ達は人間が自分たちを殺そうとしていることを知っているので栽培稲よりも先に成長して種を落とし、田んぼに潜んで越冬し次の機会を待つ。弥生時代からずっとそうして生きてきたんだと思う。人間が作ったシステムに忍び込むことによって、殺されながら生き続ける。人間が滅んでも雑草イネはどこかで生き残るんだろう。そういうことを考えると、めちゃくちゃでかい木が信仰の対象になったりする気持ちがわかる気がするし、その気持ちが分かれば、雑草だって信仰してもいいのかもしれないと思う。

 雑草は自分のことを雑草だと思っていない。桜になりたいとか、考えないのではないかなと思う。かにかまも、別にカニになりたくはないのだろうし、蜂によく似た虻だって蜂になりたいと考えているわけではないかもしれない。なんか生きてうちにそうなっていて、そうなって生まれたからには、全力で存在するだけなのだろう。