物語神

 なんか僕の中に物語神みたいなものがある。それを最近、人に話さなくなったのは僕の中の物語神が僕とほとんど同化してしまったからだが、同化してしまうと物語神への信仰が減って(自分の思考が物語神だから)何のために物語神がいたのかが分からなくなり、その存在すら忘れ去られてしまっていて、でもそれは神への忠誠がなくなったというわけではない、みたいな訳の分からないことになっていた。
 文章を書けるようになりたい、と切実に願ったのはもう10年以上前のことで、あまりにも文章が書けなくて枕を濡らしたことも一度や二度ではなく、それくらいの熱があったことはあった。にせよ、ここ数年はすっかりその熱も冷め、ただ習慣として書くことだけがここに残っている。そのことが少し気持ち悪いことのようにも感じている。僕は本当に書きたいのか、という自問自答はおそらく人生で580回はしているけれど、そのうちの320回くらいは「書きたくない」で、残りの241回は「ちょっと書きたい」だった。僕はたぶんすごく書きたいと思ったことがほとんどないし、すごく書きたい題材というのは、大抵は書かない方がいいことだったりもする。書いてもいいけれど人に見せない方がいいこと、という意味だ。でもそういう題材が一番書きたくなることであることなんていうのは自明であるように思う。強い題材はより大きな影響を及ぼす。けれどそれは良い影響とは限らない。そして書きたい題材をストックし続けることは体に悪いということも感じている。だからちょっとずつ小出しにしている。小出しにして書いた文章が面白いかというとこれが全く面白くない。けれどそのことを物語神は怒ったりしない。物語神は文章そのものよりも、題材を集める時に最も効果的な働きをする。
 物語神を信じていた頃は、そのことを他人に話すこともあった。それは次のような言葉になる。
「〇〇で失敗したの? じゃあそれブログに書けるね!」
「ふーん、生まれつき〇〇なんだ、いい小説書けそうだね」
 論旨としては上記の言葉通りのセリフを僕はわりと本気で信じて放った。もちろん文章を書く人達に限定してだけれど、それでも僕はたしかにはっきりと物語というものですべてを肯定できるような気持ちでいた。そうでもしなれけば失敗や生い立ちが「無駄になってしまう」と思っていた。「ただの悪い設定」で終わってしまうと思っていた。そういう負のもの(本人が負であると感じているもの)で戦うことができるのが物語だと思っていた。僕は今よりもずっと強く物語を信じていた。その頃に僕の中に物語神が生まれたのだろう。今の僕は物語神と同化しているので、物語を通さなくても失敗や生まれつきの〇〇を受容できる。たくさんの人と会い、人を見て、それなりに話して、人間というものが少しずつ分かってきた。だから物語が表現しようとしているところのテーマを、物語ではない現実で見聞きして、それに慣れてしまった。物語が提示する感覚を、すでに現実で知っている時、物語の新鮮さは失われていた。物語神はそのたびに小さくなっていった。僕が「書きたい題材」に会うたびに。
 物語神が大きかったころには、僕には行動の動機というものが何一つなかった。体力も気力もなかった。家にずっと引きこもってゲーム漫画映画小説ゲーム漫画映画小説ネットなどをしていた。それはどうしても僕に必要なものだった。僕は物語を通して現実を知る必要があった。または人間というものの生態や考え方などを知る必要があった。僕が文章を書けない時、僕は生きていなかった。物語で生きていた僕は、文章を書けない自分をとてつもなく不安定なものだと感じていた。あるがままの自分などというものはなかった。そもそも僕はほとんど現実の世界にはいなかった。
 僕はなぜ自分が文章を書けないのか考えた。5年くらい考えた。その結果、僕が何も経験していないからだ、という結論が出た。題材を持っていないのは僕が行動しないからで、僕は行動の動機がないから行動をしないので題材を持っていない。この消極的な連鎖を断ち切るためには行動すればよかった。僕は文章を書くため、という動機で行動するようになった。失敗しても文章にできる、題材になる、という考え方は、僕にとって信仰そのものだった。生きる理由であり、行動原理だった。なんでも挑戦するようになって、題材は増えた。体験したことは、文章を書けなかったあの頃に比べたらとてつもなく多い。けれど僕はほとんど文章を書かなくなった。物語神を前提にしなくても、行動できるようになっていた。僕は行動のための行動をするようになった。より面白いことや興味深いことに信仰無しで挑戦できるようになった。僕の中の物語神は死にかけていた。
 田舎から東京出てきて、いろいろな場所に行って人に会って働いた。僕は幸福だった。ある時には強い不安に襲われることもあったけれど、基本的には幸福だった。この現状への不安はきっといくらお金があっても続くし、どんなパートナーが居たって変わらないし、ある意味では正常な感覚なのだと思う。嫌なこともたくさんあったし不眠だし今でも苦しい事や悩む事はたくさんあるにせよ、僕は今も幸福だと思う。それは間違いがないと思う。いろいろあったけど、僕は貧弱に幸福だ。
 時々、何かが足りない、と思うことがある。何が足りないのだろう。自分の人生に足りないもの、僕が求めているものはなんだろうと考えていた。鉄板焼きでロブスターを食べたり、ジャズクラブでジントニックを飲みながら演奏を聴いたり、百貨店でナイスなシャツを買ったりした時だ。何が足りない。で、今回の結論は、毎回の結論と同じだった。僕は物語が欲しい。これは人間の普遍的な性向ではなく単純に僕の個性的な循環的な妄想だ。僕が求めているのは物語で、僕が同化した物語神は、僕が同化したことによってもう見えなくなっているけれど、僕自身が物語神でもあるので、僕は単純に物語を、行動の動機としてではなく、あるいは失敗や生まれつきの〇〇の昇華の方法としてでもなく、僕は単純に物語がすっげー好きなんだ。現実の中に見出す物語も、または創作のために作られた創作の物語も、同様に物語が僕は好きだ。それを求めている。物語は物語以外では表現できない。僕は今のままで充分に幸福だけれど、物語があればそれでひとまずは完璧といってもよいだろうと思った。物語への新鮮さは失われている。けれど現実への新鮮さだってとっくに失われているではないか。それはいろいろな現実を体験してみたからこその結論でもある。どうせ何をやっても物足りない感じがするのだ。物語がそこになければ。