観覧車の説教

 観覧車に乗った。

 最後に観覧車に乗ったのはいつだったろうか。思い出せないくらい昔である。観覧車を見ると、僕はとてもわくわくする。巨大さに心を奪われる。あれに乗りたい、と思う。どんな景色が見られるのだろう? そうして観覧車に乗るわけだけれど、乗ってみるとこの乗り物が実に奇妙な乗り物であることが分かってくる。謎だけが残される。
 乗り物というものは基本的にAからBへ、BからCへというように移動のために存在しているわけだけれど、観覧車は必ずAからAにたどり着く。スタート地点から、スタート地点に戻る。途中下車は無い。メリーゴーラウンドのように上下に揺れることもないし、速度感があるわけでもない。観光バスのようにダイナミックに町の景色が切り替わるわけでもない。ただゆっくりと高度が上がっていき、より遠くを見通せるようになる。そしてまたゆっくりと下がっていき、地上に近づいていくことになる。これは一体なんなのだ。観覧車から得られる情報・刺激は、他の乗り物に比べて圧倒的に少ない。クライマックスもなければ、スリルもない、そもそもそういうアトラクション性を最初から無視して作られているようでもある。僕は東京の街が、ビルディングや鉄塔が地平線までびっしり連なっているのを見て「東京ってでっかいな~」と思っているうちにすべてが終わっていた。あまりにもそっと終わってしまい、自分が何をされたのかよくわからなかった。
 観覧車から降りて、「これは惑星の運動を模しているのではないか」と考えた。観覧車に乗るということは、制御することができない大いなる円運動の中に放り込まれることだ。観覧車のかごに乗っている時、僕は観覧車の一部であり、個性も、人間の意思さえも失っている。ただ回転し、元の場所へ戻る。惑星の回転と同じように止めることができないし、一日のループには特に意味もない。地球は僕をどこへも運んではいかない。朝から朝へ、繰り返している。この大いなる運動には逆らうことができませんよね、と観覧車は僕に語り掛ける。あなたはそういう力の中にいるんですよ、と観覧車は言う。そしてですね、大事なことは、その運動の中で、限られた空間と時間の中で、あなたが何をするかなんじゃないですか? と観覧車は言う。観覧車が惑星の運動という力の再現であるならば、かごの中の僕が表しているのはそれぞれの人生だったんじゃないか。観覧車は運動をしているだけであり、何かを提供するわけではないのだ。観覧車はルールそのものだったのだ。そのルールの中で、ただ何かを待っているだけだった僕は、ただ「あっ、スカイツリー見える~」と思ってぼうっとしていた僕は、結局のところ休日をまるまる一日youtube見て過ごす受け身体質の、お客様気質の、しょうもない僕の短縮版でしかなかった。クライマックスもスリルもないのは、僕がそれを行動しなかったからだ。待っているだけでは何も起こらない。僕は観覧車のかごが上昇を続ける間に六法全書を熟読玩味しながらブレイクダンスを踊るべきだったし、かごが頂点に達した時に天上を指さして「ガガーリン」と叫ぶべきだったし、かごが下降しはじめたらマタイによる福音書を読みながら涅槃のポーズでじゃがりこを食べるべきだった。いくらでも出来ることはあったはずだ。僕は観覧車に教えられた。
 観覧車は地球と共に回転を続けている。また朝が来る
 大いなる回転を感じろ。