左耳が聞こえなくなった

 一カ月ほど前、電車に乗って帰宅する途中、イヤホンをしたまま爆睡し、知らない駅で目覚めた時から、僕の左耳は聞こえなくなった。
 厳密に書くと、聞こえる時と聞こえない時がある状態になった。
 聞こえない状態の時は、耳に何かが詰まっているような、たとえばプールで泳いで耳に水が入ってしまった時のように、音が聞こえづらくなる。耳鳴りも続く。
 聞こえる時には、いつもと変わらず音は聞こえる。幾分か違和感はあるものの、特に気になるほどではないという具合。
 それを一カ月も放置していたのは、僕が「まあいいか」と思っていたからだ。
 左耳が聞こえなくなっても右耳が聞こえるからいいか。くらいに思っていた。僕は結構自分のことがどうでもいい。
 それでも耳鼻科に行くことにしたのは、なんとなく「聞こえなくなる条件」みたいなものが分かってきたからだ。
 まずひとつ、左耳を下にして寝ると聞こえなくなる。朝起きた段階で、耳の中に膜が張っているようになる。これはまあまあ不快だ。
 ふたつ、耳の裏の耳たぶの下あたりを指で押すと聞こえなくなる。このことから、おそらく物理的に耳の穴が塞がれているのだろうという予測ができた。神経や鼓膜に異常があるのではなく、たぶん耳の穴のどこかが腫れているような状況なのではないか。耳は痛くも痒くもないけれど、もしかしたら腫瘍か何かが出来ていて、手術することになるかもしれない、と僕は覚悟した。
 耳鼻科に行くことにした。
 治療してほしいという気持ちより、原因を明らかにしたかった。

 僕の街には耳鼻科がひとつしかなかった。
 マップを頼りに訪ねてみると、長椅子がひとつあるきりの、とても小さな耳鼻科である。
 院内はログハウス風のナチュラルな内装で、なんだか美容院のような趣がある。
 財布に入っている無数のカードの中から保険証をみつけ出して受付の方に渡し、番号札を持って長椅子で待っているとすぐに声がかかった。
 僕の前に三人の患者が待っていたけれど、彼らは平均して2分ほどで診察室から出てきた。ものすごく展開が早い。
 診察室に入ると、全身を白衣で包んだ妙齢の女医が座っていた。診察室は白塗りの壁でログハウス風の待合室との差が激しい。
「どうしましたか」と彼女はそっけなく言う。
「左耳が聞こえくなって」と言いかけた時に、受付の女性がそそそと走ってきて「薬局の方が本当にこの薬で合ってるのかって」と女医に訪ねた。
「待って」と女医は言う。それからノートパソコンを操作しながら「うん……うん……合ってる。〇〇を100mg。うん、うん違うね」と雲行きが怪しい。
「〇〇じゃない。△△の方」
「△△を100mgですね」と受付の方。
「うん違うね、85mg! そう……そう……わからない。ああ、今日はわからないことだらけだ」
“今日はわからないことだらけだ”ってたしかに言った。衝撃だった。
 受付の方は女医のノリに慣れているのか、無言で立ち去り薬局への連絡を続けている。
「すみませんね、で、どうしたんですか」
「左耳が聞こえなくなって、横になったりすると何かが詰まっているような感じになります」と僕は小学生みたいに答えた。
「じゃあちょっと診ますね」
 女医が僕の耳にガーゼみたいなものを当てて、それから何か冷たいものを差し込んだ。
「耳垢ですね」と女医は言った。
 銀色のトレーの上に、クソでかい耳垢が乗っていた。
 僕はそれを見て泣き笑いのような顔になった。
 それから冷汗が出てきた。
 僕は手術をも辞さない覚悟で耳鼻科を訪れたのだ。

「お、終わりですか」と僕は聞いた。しかし聞くまでもなくわかっていた。終わったのだ。
 女医が僕の耳から鉗子を引き抜いた瞬間に、驚くほどはっきりと音が聞こえるようになっていたのだから。
 世界の解像度が40%くらい鮮明になっている。遠くまで聞こえる。
「耳垢ですね。ほかに症状が無ければ、終わりです」と女医は冷たく言う。
「ありがとうございました……」と僕は情けない声を出した。よくわからない羞恥心ともやもやを抱えてそそくさと診察室を出ようとすると、
「見ますか?」と女医が何故か追い打ちをかけてきた。なぜだ。
 僕は自分のクソでかい耳垢を見て「ホ、ホホォ」と言った。なぜ僕は自分の耳垢を他人に見せられているんだ。
「すごいのが出たから、たぶん原因はこれです」と女医はにやけながら言った。
 僕はただ泣き笑いの顔でうなずくだけだった。
 待合室に戻り、額の冷汗をぬぐってお会計をした。
 1200円だった。
 僕はひらすらに恥ずかしかった。こんなに恥ずかしい1200円は経験したことがない。
 ドアを開けて外に出ようとしたとき、受付の女性が誰かと「耳垢だって」と話しているのが聞こえた。
 聴力が以前の倍になっているのでなんでも聞こえるのだけれど正直いって耳をふさぎたかった。

 帰り道で気を取り直す。大事にならなくてよかったよな。すごくすっきりだ。原因も分かりすぎるほどに分かったし言うことはない。
「耳が聞こえづらいんだ」と誰かにいうと、「耳くそがつまってんじゃないの?」って冗談で言ってくる人がいるけれど、あれって実はめちゃくちゃ本質的な回答だったんだなと思った。
 耳くそが詰まってるんだよ。普通に。
 しかしながら、僕はわりに耳掃除が好きな方だ。それがなぜあんなにクソでかい耳垢になってしまったのか。どうしたら再発を防ぐことができるのか、それを調べることにした。
 耳垢で耳が聞こえなく状態のことを「耳垢栓塞」と呼ぶらしい。
 調べるといくらでも情報が出てくる。
 耳掃除を間違った方法ですると、耳垢を耳の奥に押し込んでしまいそれが固まってしまう。
 ウェットタイプの耳垢は特になりやすい。というか耳掃除自体やらない方がいい説まである。2~4週間に1回でいいという説もある。そもそも耳掃除は耳鼻科にやってもらうべきだという説もある。なんとなく聞いたことがある程度の情報が、今ははっきりと信じられる。耳掃除はしない方がいい。
 クソでか耳垢を耳鼻科で取ってもらうことは恥ずかしいことだけれど、それは正しい。これだけ情報があふれているなら、お医者さんはたぶん耳垢栓塞を見慣れているし、別に照れるようなことでもないのだろうと思う。
 それに、当たり前のことだけれど、耳に違和感を感じたら(それはもしかしたらただの耳垢かもしれないけれど)耳鼻科で診てもらった方がいい。
 僕は運よく耳垢栓塞で済んだ。
 でも、いつか腫瘍が出来るかもしれない。
 そうなったらもう、笑い話では済まない。