もしも英語を自由に使えたら

 もしも英語を自由に使えたら僕は、『ダイハード』の字幕版を字幕なしで見る。ジョン・マクレーンが何を言っているのか僕は知りたい。イピカイエってどういうニュアンスなのか僕は知りたい。字幕版には字幕版の良さがあるにせよ、ブルース・ウィリスの声をそのまま理解したい。文字と音とに切り離されることなく、そのものとして映画を見たい。

 もしも英語を自由に使えたら、翻訳されていない洋書を読みたい。ブコウスキーのたくさんの著書は、いまだ翻訳されていないものが多い。僕はふらりとアメリカの本屋に向かい、ペーパーバックを買う。その時にはきっと、本当に素晴らしい気持ちになると思う。僕の好きな『死をポケットに入れて』だって原書で読める。考えるだけで胸が躍る。それからブコウスキーの墓に刻まれているあの言葉を見に行こう。“DON'T TRY”その言葉の意味も、きっと違って見えるんだろう。

 もしも英語が使えたら、あの日僕に道を聞いた金髪の女性に、正しい道を教えたい。駅のホームで本を読んでいると、海外の方に話しかけられた。必死に聞き取ろうとしたけれど、僕のリスニングは中学生以下だった。おそらく彼女は「丸の内線ってのはどこにあるの?」ということを聞いていたのだと思う。まったく自信が持てないままに、彼女を案内した。それが正しい行いだったのか、最後まで自信を持てなかった。コロナ以前はよく旅行者に話しかけられたものだ。駅のホームで読書をするのが好きだった僕は、あまりに話しかけられるので「ウェアアーユーフロム?」ってブロークンもいいところも片言で話しかけるのがわりに好きになった。海外の方は「自分が敵ではない」ということを証明するために軽い雑談をするものだと聞いたことがある。映画を見ると、エレベーター内で見ず知らずの他人とでも会話をするシーンをよく見かけるけれど、どうもそういう経緯があるみたいだった。「フロムキャナダ」「オーイエスグッドカントリー」適当な会話しか出来ないけれど、それでも旅人が困ったような顔で笑うのをみるのもうれしかった。もしも英語を自由に使えたら、気の利いたジョークでも言ってあげたく思う。

 もしも英語が自由になったら、僕は英語で思考することになる。“もったいない”という日本語は、その表現は、英語にはないものだと聞いたことがある。だからきっと英語にだって、日本語にはない概念があるはずだと思う。もしも英語が使えたら、思考は今よりも自由になる。より多くの概念を獲得することになる。その時、僕に何が起こるだろう。新しい言語の獲得は、僕の固定観念を覆すかもしれない。それはきっとよく生きることの助けになる。

 もしも自由に英語が自由に使えたら、それでも日本語を好きでいたい。