足を踏み鳴らす男

 休暇2日目。

 休むということは、休むということだから、休む時は休むこと、以外のことをしないこと、が肝要であると思われ、では休もう、と、休暇の初日に改めて決めたわけではあるのだが、空白を空白のまま保つことが難しいように、最大・最強の休む=絶対安静(一切の行動・思考を経ち情報を遮断し、寝ること)を保つためには、休むという言葉の印象に反して、強い意思が必要となる。ということを感じています。何もしないこと、何も考えず、どんな情報にも触れないこと、は、治療行為や、贖罪や、あるいは修行でもない限り、拷問の様相を呈し始め、ある種の苦痛をもたらすわけであります。情報化社会と呼ばれて久しい昨今、無料で無限のディジタル・コンテンツをひたすらに摂取することが可能な天国、あるいは地獄、もしくは煉獄の世界で、ぴかぴか光る箱を眺め続けることで一日を終えることに危機感を感じたのは、きっとはじめてテレビジョンが開発された頃から、ずっと続いているホモ・サピエンスの、ホモ・ルーデンスの、功罪でありましょう。それはまったく人間的でありながら、だからこそ人間の生物性を蔑ろにしているのではないか、などと思われたわけですが脳のないクラゲさん、は海流に乗って何も考えず浮浪などして極楽とんぼのうつくしさがありました。きっと自分が生きていることすら気づいていないから、あんなに透き通って綺麗なのでしょう。無心でネット・サーフィンを続けていれば、いつか人類もやわらかく、透明になっていくのかもしれません。

 なんの話でしたでしょうか、ついついTwitterを見てしまう話でした、それからYoutubeでお気に入りチャンネルが更新されていないか、お気に入りブログが更新されていないか、チャット・サービスにメッセージが来ていないか、そういう確認をしてしまう。それをしないことにはストレスだ、息が詰まる、自然ではないと感じる……そんなふうになりましたね。20年前は、新聞のテレビ欄を見て、雑誌で新しい情報に触れ、たくさん想像をして過ごしました。限られた情報の中から最大限の効果を引き出すために、何度も記事を熟読玩味し、頭脳で反芻し、手にすることのできないものに憧れました。現在は、欲しいものはAmazonがなんでも運んできてくれるし、誰とでもいつでも無料で朝まで話していられるし、Youtubeにさえ接続すれば好きな番組を好きなだけ見られます。大人になったら、このオープン・ワールドは自由度を増して、どんなことでも出来るようになって、スーパーカップを2つ買って2つとも一気に食べました。それから贈り物を買って故郷に送り、メッセージに返信をし、マンダロリアンのシーズン2の最後まで見て、スーパー銭湯に行こうと3時間ほど念じて諦めたあと、クリスマスプレゼントを持って姉の家に向かいました。4月も終わりかけ、ようやくクリスマスプレゼントを選び終えたところです。世間の時間の流れは早く、サンタクロースはフィンランドに帰りましたが、僕はまだTOKYOでがんばっています。寝たい時に寝、食べたい時に食べ、そうして不安を感じない今日は休暇の2日目。気持ちの余裕、時間の余裕、体力・気力の余裕、休暇が持つ余裕は、あらゆる行動の効果を高めるものだとわかりました。電車の隣の席に座ったおじさんが、革靴をぱたぱたと響かせています。ひっきりなしに足を踏み鳴らし、スマートホンで麻雀のゲームをして、僕は多様性について考えさせられました。全ての多様性を許容したら、そこには混沌しか残らないのではないか。でも、それはそれでいいのか、とも思いました。今も昔もこの世界は混沌が溢れていました。姉がメルカリで人形を買ったんだそうです。買ってみたら予想よりかなり大きく、しかもかなり臭かったので、半分にへし折って捨てたそうです。