やわらかい春の陽差しが冬を殺した

 やわらかい春の陽差しが冬を殺した。

 朝8時の駅のホームの、黄色い線の内側に立ち線路の向こうの、宙に浮かんで見える巨大なスクリーンに映し出された、風邪薬のCMの女優が咳をして紫色の、とげとげした粒が気味悪く笑っているのを意味もなく、眺め体を支えるだけで精一杯だった。
 オレンジ色の電車が風巻き込んでホーム軋ませる花も草も揺れている。ネクタイも人工風に乗って波打って鎮まった。ドアーが開き歩行し座しスマートホンで愛と愛じゃないものについて調べてみるとほとんどが愛だったのでがっかりした。目玉をぐるぐる回転させて車内を見渡してみると、春服の男女カポー、登山へ向かうロウフーフ、道路少年トライブ、蠅、バヤリースのアルミ缶、行楽を迎え撃たんと欲する華やいだ空気弛緩した幸福の中でわたしはひとりだけ紳士服を着衣し業務鞄を所持し牢獄の中にいることに気が付き意識を失ってしまいたいと思った。目を閉じると深海の音がしてそれは物理的な音ではなかった。

サステナブルアイデンティティー』と書かれたバッグを持った女性が渋谷駅を出てすぐのところの階段を降りようとしていてその文字が“きつい光”に照らされて黒く照って目に刺さって言葉の意味を考えざるを得なくなりサステナブルアイデンティティーってなんなんだろうって速が増す。維持できる・耐えうる・自己同一性とは、持続可能自己同一性とは、そんなものを持っている人間がいるのだろうか、それともそれはただの理想で、ただの言葉なのだろうか。維持可能な自己同一性というものがあればおそらくそれは便利ではあっても人間的ではないのだろう。自己同一性というものをそもそも維持できている人間がいるのだろうか。それとも自己同一性というものは“ゆらぎ”をすら含んでいるものなのだろうか? 円環を描く人間の好不調思想の変遷人間関係なんでも含めた移り変わる人間の根幹がそれほど大きくぶれない限り自己同一性は認められるのだろうか一体誰に? アイデンティティーという言葉が便利に使われすぎてポップに使われすぎてそれがまるで性格であるようなペルソナであるような感じに聞こえてきてでもそれはあるとかないとかではなくただの概念だった。サステナブルアイデンティティーが欲しいだろうか、それとも必要ないだろうか。そんなことを野生の羊は考えるだろうか。ヒメジョオンは。ありのままの自分をさらけだそうという言葉はいつもとても胡散臭かった。ありのままとは最もほど遠い人間をアイドルと呼んでいると気づいた時、人間は人間以外が好きなんだとわかった。

 隣席にようやく座った紳士服のおじさんがスマホで漫画を読んでいるのを見かけてそこに突発的な情けなさみたいな感情をわずかに抱いたもののわたしはその時スマホvtuberを見ていて同族というのか同属というのか結局のところいくつになっても面白いものは面白いし面白くないものは面白くないでいいよなと友情のような気持ちを抱いたけれどその似非友情も気持ち悪くなって光の中に溶けたいそんな朝の通勤時間がいつまでも続いていくような錯覚。明日も、明後日も、30年後もそうしているつもりか? と自問自答を繰り返しため息が北半球で竜巻になる。生きているというより存在しているだけでいいのかもしれないなと幸福の最低保証をさらに引き下げて価値観の転覆を図る。必死に生きている時かならず死ぬことが決まっていた。何についても語りたくないと思ったし、語るなら大事なことについて語るのがいいと思った。でも大事なことはいつも語ることができないことだし、語りたくないことを書くなんて馬鹿げた馬鹿はわたしにはできない相談だった。だからいつも中庸な題材をここにしゃんと提出している。それをわたしはにわかに楽しい。そうしてそのことがいつまでも続けばと祈っている。この文章はとてもたのしい。