馬のように大きな、砂漠に住んでいる、こぶのある動物

 当たり前だと思っていて、改めて考えたこともない対象について、丁寧な説明を聴いたりすると、ぼくは感動する。

 らくだって知ってる? 馬のように大きな、砂漠に住んでいる、こぶのある動物。と、その人が言った時、ぼくの中の眠たげな顔のらくだは、きちんと馬のような大きさで、獰猛な太陽の砂漠の上に立っていて、水を蓄えたこぶをふたつ持った、確固たる存在として再定義される。

 もしかしたら、会話というもののひとつの役割は、そのようなものなのかもしれない、と思う。それは知識の共有だけではなく、同じ物が過不足なく見えていたのか、という確認であるのかもしれない。

 単純に、同じものが好きで、見ているものが同様に楽しいと感じられることを、何故楽しいと思うのか、ぼくにはまだわからないけれど、その時、テレビに映った口の無い蛾を、姉はかわいいと言った。ぼくはきもち悪いと言った。

 ぼくはよわい命がきもち悪い。そして怖い。硬い鉱石や、太い木や、誰の手も届かない星のまたたきは安心だった。

 白いもさもさの体毛を持った、丸い複眼の、櫛形の触角の蛾は、人工的に交配を繰り返して作り出され、孵化する前に煮て殺される。かわいい顔をしているね、と姉は言う。でもかわいそうだ、と姉は言う。

 家畜や、愛玩動物は可哀想だろうか。保健所の犬や猫は。あるいは、毎日労働を余儀なくされ、死ぬまで働く疲れ果てた社会人は、可哀想だろうか。わからないな、すこし考える力も無くて、膨大なサイドクエストが進行せずに増えていく。いっそのこと、ぼくはもっと冷酷になるべきなのかもしれない、と考える。イノシシの牙を並べたネックレスをして、頬骨に血でラインを引き、弓矢を背負って、雄叫びをあげるべきなのかもしれない。それはつまり、ぼく自身が死ぬかもしれない、という立場になることでしか、動物の生に対してフェアであることはできない、ということなのかもしれない。

 肉食獣は強い雄が弱い雄をやっつけて、一番力の強い雄がたくさんの雌を従える、という習性がある。でもそれはすべての生物のやり方では無い、ということをぼくは忘れてはならない。鳥たちは歌をうたい、ダンスを踊る。力ではなく優雅さを競う。ある種の鳥たちは生涯パートナーを変えない。単細胞生物は分裂して増える。生き方のモデルケースはたくさんあるとも言えるし、ひとつもないとも言える。

 その動物はさまざまなことをして生きている。パソコンにグラボを入れ、周防パトラの歌を聴き、同級生と夜の町を歩き、野球観戦の約束をして、ラーメン屋で九龍を感じ、後輩とカラオケをし、会社に勧誘され、釣りに誘われ、嫌味を言われ、冗談に笑い、ゲームをし、論語を読み、歩き、電車に乗り、息を殺し、酒に酔い、支払いを済ませ、布団に入り、朝を迎え、眠いなあと思いながらシャワーを浴びて、二足歩行で、動物の中で唯一わらうことができて、物語を楽しむことができて、楽器を弾き、相対性理論について考え、それで、まあなんとかかんとか生きている不完全でかわいくてかわいそうな、そんな動物の生態を、ぼくは今日も体験している。