人の業

 めちゃくちゃ忙しい1日だったので残業をして、その後、同僚と焼肉を食べビールを飲み、帰宅時に駅に着いた途端、先輩から電話が来て少し笑い話をして、到着した電車にぎりぎり乗り、乗った電車が運転を見合わせており、駅のホームに放り出され、混迷を極める雑踏の只中でこれを書いている。一体、今日という一日にいくつのイベントを放り込めば神の気が済むというのか。あまりにも凝縮し過ぎていて、もうなんの余裕もない。ひとことで言えば、うんざりである。うんざりであるが、ポジティブに言えば充実している。神は乗り越えられる試練しか与えないという。それならば、神はバランス感覚マジで無い。

 先輩が電話で言っていた。俺の部署は月の労働時間300時間だよ。一般的な月労働時間は160時間だと言われているから、過労死ライン軽く超えていますね、はははとぼくは大笑いをした。そして涙をふいた。神はバランス感覚マジで無い。先輩だって懸命に生きているのだ。感情を失いながら、激甚なる疲労を抱えながら、健康を著しく損ないながら、人生をぎりぎりまで切り売りして、妻子のために粉骨砕身、我が身を投げうって働いているのだ。すさまじいではないか、社会人というものは。神はこう言った。「人はおのれの仕事に出て行き、夕暮れまでその働きにつきます。」と。深夜まで働きます。とは言わなかったではないか。これは、人の業です。戦争はずっと前からはじまっていた。誰も気づかなかっただけ。

 一日に、たったひとつ、何か楽しみがあればいい。たったひとつ、好きなことができていればいい。もう、そう思う他ないではないか。職業奴隷として訓練された人間として、その価値を教育されてきた人の業として、そのシステムに生かされてきた子供として、ただひとくちの水のために生きる他ないではないか。30分のゲームのために、8時間の労働と3時間の通勤を重ねて。

 人は他者に影響を与えることができない。人はこの世界に何も残すことができない。人は滅ぶものしか生み出すことができない。おお、神! 神はとっくに死んでいる。誰も気づかなかっただけ。だから人が生み出した脆弱な喜びをぼくは信じよう。それしかないではないか。

 今日は、いい音楽をひとつ聴きました。頂き物の紅茶を飲みました。人の命が軽い以上、命を救われました、という言葉も、もっと気軽に用いられるべきなのかもしれません。