人気者について考える

 人気のあるVTuberは、チャンネル登録者数がもはや200万人くらいいて、いつでも同時接続数が1万人くらいはいる。一昔前は1万人も見ている人がいたらすごいなあと思ったものだけれど当たり前になってる。時代は変わった。バーチャル格差も拡大して、どこの世界も世知辛くなっていきます。今日はぺこらとラミィのコラボを見ていた。ラミィが指輪型の決済システムを普段使いしているという話題になって、ぺこらが「恥ずかしい」という意味のことを言った。たしかに恥ずかしいよなと僕も思った。そこでラミィが「ぺこら先輩影響力あるんすからかっこいいとか言っといた方がいいすよ」とツッコミを入れた。そうだよな、ぺこらは影響力大きいもんな。と僕は思った。ぺこらはむにゃむにゃ言って笑いにしてしまった。自分ではかっこいいとか便利とか思えないものに対して、影響力が大きいからという理由で賛同することを渋った形になったわけだけれど、でもそういうところはぺこららしいなと思う。ちなみにコラボは27000人ほどが見ていた。東京ドームが半分埋まるくらいの人数。
 たとえばぼくがものすごく影響力が大きいとして、特定の商品に対して何か批判めいたことをしたら、その商品で稼いでいる会社は迷惑を被るわけなのだよな。チャンネル登録者数が200万人いて、配信を始めればすぐに1万人以上が集まってくる環境で、僕は〇〇の商品がとてもおいしくないと思うので絶対に食べません! などと言ったら、僕のファンの人が「外黒がまずいって言ってたから食べるのをやめよう」って思ったりするのだものな。それは一体どういう気持ちなんだろうなって思う。ぺこらはエンタメだけれど、ぺこらの中の人はエンタメではない。ステージに上がればエンタメだけれど楽屋に戻ればエンタメではない。ぺこらの中の人がもし〇〇の商品が大嫌いだったとしても、ぺこらとして食べ、そしておいしいと言わなければならない日だって、きっとあったと思うんだよな。それは一体どういう気持ちで、どういう状況なのだろう? ステージに上がっている時、あるいは配信をしている時、ぺこらの中の人は一体どこに消えるんだろう。ステージの上にいる時って、もう人間ではないんだよな。配信の中でぴこぴこ動いている時って、もう人間ではないんだよな。レジの奥に立ってスマイルを作っている時って、もう人間ではないんだよな。人間は役割として人間以外を人間に課し、そして対価を与えて制御してきたわけなのだよな。どうして人間には人間以外が必要だったのか考えてみると、人間が自由に振舞っているだけではそもそも社会というものが全く成り立たなかったからなのだろうな。そして社会というものが成り立たない場合、暴力が支配する世界になる。だから力の強いものが力の弱いものを従えて、そしてその瞬間に役割が生まれ、ある瞬間では役割自体が人間の価値を上回ってしまうことがあるということなのだろうな。だから役割っていうのはそもそも力の代替品であるわけだ。力があるから上位の役割につくけれど、ある時には力がなくても上位の役割であるというだけでそれが力自体になってしまうということなんだ。僕たちがステージの上のアイドルを観て、そこに人間以外を求めてしまう時(アイドルはステージの上でうんこをしない)、僕たちはそこに役割=力を見ているということでもあるんだ。優れた特性があるからステージに立っているという力、と、ステージに立っているからこそ優れた特性があるように感じるという力の代替品、その両方を自動的に感じているものなのだ。ということは、人気者は人気者の力=役割をまとっているということだ。そして人気者が人気者の役割を忘れ、人間の顔を見せた瞬間、炎上することになる。ステージの上でうんこをした瞬間、人気者は役割を剥奪され人間になってしまう。つまり力というものは与えられた役割をどれだけ忠実にこなすことができるか、その能力こそが本質なのではないか。そして役割を演じる力というのは、つまり人間をどれだけ隠せるかということでもある。人間が人間以外に憧れるのは、人間に力=役割がないからではないのか。あるいは人間に大した役割が与えられない、というか人間であるだけでは暴力の世界を作ることしかできないから、ではないのか。そういう風に考えると人々が出世をしたがったりアイドルになりたがったりすることになんとなく納得することができた。力=役割=キャラクターを把握して育て人間からいち早く脱することが人気者への道なのだろうなとなんとなく思った。なりたい職業とか夢というものも、得たい役割を特定するということであろうなとなんとなく思った。
 でもぼくは人間でいたい。
 今日は久しぶりにウインナーを買って、それを電子レンジで加熱すると茹でたのと同じことになるというすごい発見をしました。おいしかったです。