制限をかけたい。ウームムム、ウーム。
可能性を押し広げることが人生を豊かにするという言葉を短絡的に鵜呑みにし過ぎたのかもしれない、と自戒しました。
その*可能性*は幻想だし、その*人生を豊かにする*もまた幻想でしかないんじゃないかなと、考えすぎている。
あの日ギャングと勇者とオタクが環境や血や性向によって選ばれている、と書いた日から引っかかり続けていた。
「強く願えば人間はどんなものにだってなれるんだ!」
その言葉には続きがある。
人間は、なるようになるし、なるようにしかならないし、なるべくしてなる。にせよ、実際になった人は、明らかに自分で選択を終えている。
*受け入れる*も、ひとつの選択なのだし。
*拒否する*も、ひとつの選択なのだった。
「なろうと思ってなったわけじゃない」とギャングさんは言ったけれど、でも本当に心から苦痛で嫌だなと思ったら、辞めることはできたはずで、実際に辞めた人もいるはずだ。(辞める、という言葉には死も含める)
とても緩やかにきわめてソフトに受動的に受け入れているのではないか?
あるいは一度そういうシステムに組み込まれると、選択肢を認識できなくなるのだろうか。
囚人が刑務所から出るのを怖がるように。
自由という言葉が私は好きです。
しかし自由という言葉はそれほど自由ではないし、社会的なルールや他人への迷惑を意識した自由は全然自由じゃないし、真の自由はフレッシュな狂気でしかなく、狂いたいわけでもない。
そもそも空を自由に飛べない時点で、この自由はちょっとせこいなと思ってしまう。
自由という概念もまたサピエンスの頭の中にしか存在しない幻想でしかなく。
頭の中の自由さえ、想像力のない私には不自由でした。
そこで長い間いじけていたのですが、年齢を重ねるうちに*不自由っていいかもしんない*と思うようになった、が、現時点だった。
井の中の蛙は選ばれた者か? は、今日のハイライトです。
大海を知っている蛙は、偉いのでしょうか。偉いのではなく、視座が異なっているだけだった。
大海を知っている蛙は、たぶん井の中のことをあまり知らない。
その反面、井の中の蛙は、とてもよく井の中を知っているのではないでしょうか。
私はそういうものになろう、ということです。
選択をすると、他の選択肢は消えてしまう。けれど、無限に選択肢を増やしたところで、選べるのは大抵ひとつです。
井の中はきっと不自由でしょう。
けれど、幻想ではない自由が、この世界にあったでしょうか。
というのは、自分を励まして、どうにか井戸に突き落とそうという魂胆です。
余談が想像力です。
「ふっ……井の中の蛙、大海を知らず!」と言っている人もなんだかむかつきますが、井の中の蛙はそれはそれでなんか嫌なやつだったんだろうなあと思いました。「ホッホ~~ゥ……井の中最ッ高~~~!!」って裏声で叫ぶようなやつだったんだろうな。だから大海蛙は皮肉っぽくなっちゃったんだろう。
井の中の蛙、大海を知らず。俺の手につかまれ、海へ向かうぞ。
くらい言えばよかったのにな、と思い、涙しました。