時間の何が大事か、について

 時間は大事だよ、と人はいう。
 時は金なりだよ、と人はいう。
 どうやら時間は大切なものらしい。それはなんとなくわかっていた。
 では、何が大事なのか。
 人が大事にしている時間とは、一体なんなのか、考えていた。
 
①時間が無限にある人間がいるとしたら、時間は大事ではない

 色々考えてみたけれど、時間を無限に持っている人間、つまり超寿命不老不死マン(以下、不死マン)がいると仮定した場合、不死マンには時間など特に大事ではないと思う。死ぬまでの時間が無限だから寿命を恐れる必要がない。不死だから働かなくてもよいし、働いてもよいし、というか時は金なりの論理を採用するなら無限の寿命を持っている人間は無限の労働をすることができるので無限の対価を得ることができるわけで、つまり金の心配をする必要もない。またパートナーの寿命が尽きるなどの他者の寿命が尽きることへの不安がイコール時間が減る事への危機感となる可能性もあるけれど、無限の寿命を持っている限り、無限のパートナーと出会う可能性があるためそれほど時間が及ぼす影響はないと思う。もう恋なんてしないなんて言い出したりしない限りは。
 つまりここで何が言いたいのかというと、人が時間は大事だという時、その背景には時間=寿命が有限であるという制約があるということ。
 生きていられる時間は有限だから大事なんだよね~という論理であるということ。
 
②有限な時間をどのように使えば、時間を大事にしていることになるのか

 時間を大事にしよう、という時、どのように時間を使うことが求められるのか。何パターンかあると思う。
・仕事
・恋愛
・趣味
・勉強
・家族
 なんとなく大体上記の行動に時間を使っていると時間をきちんと使っているねということになりがちだと思う。人間の生活なんて上記の5項目がほとんどすべてだと言えるかもしれないくらい大きなジャンルだから、まあそうなんだろう。そのほかにも「健康」とか「コミュニケーション」とか項目を増やそうと思えば無限に増やせるけれど意味がないのでしない。
 この5項目に時間を使っていると充実した生活を送っているような感じに見えるけれど、偏った時間の使い方をするとまた批判は増える。たとえば一日のうちの仕事の時間が増えすぎて家族の時間が減ったりするとドラマでよく見るような家庭崩壊ということになるし、趣味のゲームに時間を割き過ぎて社会的な活動が出来なくなったりすると引きこもりなどと呼ばれ社会的に不利な立場に陥る可能性がある。つまり、一見正しい時間の使い方に見えても、偏った時間の使い方である場合は、むしろ時間の無駄であると思われることも増える、ということが言いたい。(それが駄目だとは書いてない。時間は有限なので、各々が好きなように使えばいいと思う)
 
③では、時間の何が大切か

 時間は有限だから大切だ。そして時間の使い方は偏るとよくないことが起きる。そこまでは考えられた。それでは時間の何が大切か。限られた時間を、うまい具合に配分することが大事なのだ。つまり時間を大事にしろ、というのは時間の配分に気を遣えということに他ならない。漫然と過ごすなとか、惰性で生きるなとか、ぼんやりして時間を無駄にするなとか、明日やろうはばかやろうとか、色々な言葉が巷に溢れているけれども、それらはすべて有限の時間をうまいこと使いなさいというただそれだけのことを言っているようだった。うまいこと使う、という表現の先は、それぞれの価値観に沿って考えていくしかないけれど「自分の将来のために時間を使う」などは模範的な解答かもしれない。「人を助けるために時間を使う」なども善人らしくてよいだろう(人を助けると良い気分だし)。あるいはもっとストレートに「自分が好きなことに時間を使う」とすると個人主義的な現代っぽさが出ていいかもしれない。とにかく時間を配分するということを意識することで、時間を大切にしているということに必ずなる。

 ということを無職18日目にして考えた。

④時間の配分が、自分を何者か決める

 無職だからこそ今まで以上に厳密に時間を管理しないといけないなあって、やっと実感した。無職というのは、まるっきり自営業そのものなのだ。作家がよく「私たちは無職とそんなに変わらない」みたいなことをいうけれど、まさにその通りだ。むしろぼくがいま、小説を書き始めたらぼくは作家になっていると言えなくもない。そういうことを考えているうちにダイナミックな意識の転換が行われた。稲妻が脳天に落ちてエウレカした。パラダイムシフトである。これからとても大事なことを書く。
 どのように時間を使うかによってその人が何者であるかが決定する。
 つまりこういうことなのだ。
 他者によって規定された時間割の中にいる時には、このことには気づかなった。一日3時間かけて会社を往復し、8時間働き、8時間眠り、1時間食事し、あとの残り時間はyoutubeを見てぼうっとしてアニメ見て一日の憂さ晴らしをして……というサイクルの中からは見えなかった。それが当たり前の生活だったからだ。何も考えなくても、毎日何かに耐えていれば少なくとも生活することは出来てしまっていた。
 でも無職になるとすべての時間は自分で決めなくてはならない。決めていい。決めたい。ということを考えて、ではフルタイムで小説を書いたら、ぼくは小説作家なんじゃないか?
 思考実験というかなんというか、実際にそうだと思う。もちろんお金をもらっていないので生活できない小説作家ということだけれど、論理的には間違っていないと思う。8時間マンガを描いたらマンガ家だし、8時間会社で働いたら当たり前にサラリーマンだし、8時間ゲームをしたらゲーマーだ。
 
⑤自分が何者か分からない、という人は、8時間やってみたらいいんじゃない

 こういう発見を文章にすると、なぜか自己啓発本みたいな構成になってしまうのすごく嫌だよな。
 でも日記みたいにすると分かりづらいし、考えるの面倒だからそのまま書くね。興味がある人だけ学んでくれればそれでいいと思う。
 一日8時間続けて、一番苦痛が少ないことがあなたの天職です。
 それでいいような気がしてきた。何度も書くけれど、ぼくの友人でゲームがめちゃくちゃ好きな人は今セガでCG作ってるし、めちゃくちゃゲームとかマンガが好きだった知り合いは今ゲームのシナリオとイラストを作ってる。だから好きなことをやり続けてたらいつのまにか好きなことが仕事になってるとか案外普通にあることで、それは全然夢とかフィクションじゃない。なるべくして人はなる(この言葉に努力とかのニュアンスは含まれていない。なるようになるし、なるべくしてなるし、ならざるを得ないものに人はなる)。毎日8時間イラスト書いてたら嫌でもうまくなるでしょう。時間の配分が人間を何者か決めるのだ。
 それがわかったら、明日から8時間、やりたいことをやろうとぼくは思う。