本棚は永遠パズル

 本棚というものがある。木製の箱のようなもので、うちにあるのは高さが120センチ、幅90センチ。それが二台ある。この木製の箱のようなものの中に板が渡してあって、内部は四分割されている。この板の上に本を並べるという趣向である。人間が作りだした道具の中でも最もシンプルで奥深いもののひとつだ。
  本棚に本を並べておくと便利である。何が便利か、題名が見やすいのである。本は床に並べたり積み上げたりしても問題ない道具ではあるにせよ、整理して並べておくことで読みたい本がすぐに取り出せるようになる。すぐに本を取り出せると気持ちがいい。床に積んでおくと崩れることがあるし、床に本が散らばっていると歩きづらいし、崩れた本というのは人を殺すことがあるくらい危険なものだから、安全面でも本棚を導入することは人生において有用だ。ただ本棚も地震などで倒れることがあるので注意が必要である。震度5程度では倒れないけれど、それ以上の揺れとなると危険度が増すので本棚から離れる必要がある。
  本棚は上記のような危険性の他にも、もっと剣呑な特性を有している。この剣呑な特性は、使用者の性格によって非常に危険なものとなる。こだわりの強い人間は特に注意を要する。自宅の私用本棚というものは、基本的に自由に並べ替えることが可能なのだが、この自由に並び替えるという行いが便利である反面、危ないのである。何が危ないのか、並び替えにゴールがないので終わらないのである。
  本棚の本の並び変えというのは一種のパズルである。千年パズルを超えて永遠パズルである。昨日、真夜中。なんとなく部屋の掃除をはじめてしまい、床に積んであった書類など整理している時、不意に本棚が目に入り、ガルシア・マルケスフアン・ルルフォの間に重松清が挟まっているのを見かけ、我が目を疑った。「君は誰? どこから来たの?」と思った。一瞬、現実を上手く認識できなくなり、次いでわずかに生理的嫌悪感が湧いたので重松を村上春樹の隣に差し込んだ。並んだ重松・春樹をしばらく眺め、その調和に問題が無いか確かめる。まあいいだろうと思ったけれど春樹の逆隣が住野よるであることがものすごく気になってきた。春樹の隣がよる? “いや、わからなくもないよ?” でも、それだったらむしろよるではなく伊坂幸太郎だ。住野よる数冊を抜き出し床に置き、乙一の隣に固めてあった伊坂幸太郎を抜こうとするも、乙一・伊坂ラインはそれなりに固いので離したくはない。であれば、むしろ何故か秋山瑞人の隣にいる西尾維新乙一の左に持ってくる方がいいかもしれない。西尾・乙一・伊坂の並びはいい、かなりいい、わくわくしてきたな。このラインにもし森博嗣を加えるとしたら? どうだろう、もちろん更に強固なラインにはなる。日本の中堅ライト・ミステリ系の巨大防衛線だ。しかしその強さは、露骨すぎて下品かもしれない。では他に誰を加えるのが正解なのか、舞城、滝本、佐藤、奈須、竜騎士系の人たちを入れると今度は伊坂とのバランスが崩れ、気持ちが悪くなってしまう。西尾・乙一・伊坂ラインにはむしろそれぞれの特性とほんのわずかに隣接する、むしろジャンルを外した作家がいいのかもしれない。森見はどうだ、行けるか。いいよ。というかむしろアリ過ぎる。妥当で順当で適当で相応な優等生のラインだね。でも、面白くはない。そんなラインナップで満足できるか? いや、できない。ぼくは部屋の中を腕組みしてうろうろ歩き回る、深夜2時、思いついた、アレックス・シアラー。ここで外国人助っ人の投入、ミステリに寄せるのでなくヤングアダルトに寄せる方向性! 面白いことになってきた! 西尾、乙一、伊坂、シアラー、いいぞ、でも本当にそれでいいのか。シアラーが許されるなら、キングも通るのでは? いや駄目だ、ホラー色が強くなりすぎる! この辺りからぼくはひとりでずっとにやにやしながら本棚を眺めてあっちの本をこっちに差して、こっちの本をあっちに差してとやり続けている。気がつくと午前3時。すっかり疲れ果て、整理はまた明日にしようと思い布団に潜り込む。そして永遠パズルは少しの間、忘却されることになるのだけれど、いつの日かふと伊坂とシアラーの並びに違和感を覚えることになるだろう。そしてぼくは何時間でも本棚の前に座り込み、並べ替えを繰り返すだろう。こんなに楽しい玩具はほかにない。
  本棚に本を並べると、題名が見やすくなって便利だ。でも本棚の「楽しみ」は、自分の好きなように本を並べ替えられることにある。そして並び替えの楽しさとは、概念の組み合わせを楽しむことなのだ。