未読書の書き出しを全部読み読書が嫌いになる

 毎日読書をしているけれど読書のスピードが遅い。著しく遅い。早くなりたいとは思わないにせよ未読書が減らないことに複雑な感情を覚える。集中力が足りない。根性も辛抱も足りない(そんなのが読書に必要なのかはわからないけど)。ずいぶん前からこのような状態にある。おそらく30歳を過ぎた頃から読書の速度が急速に低下した。エッセイを一冊読み終わるのに半年かかったりする。それでいて長い時間をかけて読んだ本が面白かったかと言われるとそうでもなかったし、その本から何か学ぶことがあったかと言われると学ぶどころか内容を覚えていないということになる。読書人としての能力は限りなく0に近づいている。しかしなんというか映画は一日に4本観ても飽きないし、ゲームは16時間飲まず食わずでプレイできるので、単純に集中力自体がなくなってしまったわけではないんだと思う。読書に対する集中力だけがすっぽりと消失してしまったのだった。原因は不明である。心当たりはある。読書に飽きてるんだと思う。読書に飽きているのにもかかわらずぼくは読書をしようとする。それは習慣だったり謎の衝動だったりで本に手が伸びてしまう。そして何ページか読むともう眠くなったり、他のことがしたくなってしまう。そうして一日2ページ読む、などのレベルで蝸牛のような速度で読書をしている。それなのに読みたい本を買ってしまう。読むことと読みたい本を買うこととは全く違う概念だ、とすることは出来るけれど読みたい本が家の中に溢れはじめると絶望する。一日2ページしか読めないのに新しく買った本棚の5分の3が既に未読書で埋まっている。先ほど本棚を整理したので間違いない。5分の3が未読書だった。どの本もたしかに面白そうだ。選んで買ったのはぼくなのだから当たり前なのだけれど全部普通に読みたい。しかし今読みかけの本が(すでに2週間近く読み続けている)まだ終わっていないのに未読書に手をつけたらもう収拾がつかない。そんなのは読書の多重債務だ。リボ払いだ。でも死ぬかもしれない。ぼくは明日死ぬかもしれない。マンションにバスケットボールサイズの隕石が降ってきてちょうどぼくの頭に落ちるかもしれない。あるいは町をほっつき歩いている時に車が突っ込んできて死ぬかもしれない。もしくは心臓発作が起きるかもしれない。そのとき病床で苦しみながら「嗚呼ぼくには読んでない本がたくさんあるのに」等の感想を抱くことは必定。走馬灯に浮かび上がる無数の本と本と本。そんな死はあほなのではないか。大切なものを失ってから気づくやつがぼくはどうにも好きになれない。どうせ全然全く読めないなら全部すこしずつでも読んだ方がまだマシなのではないか。じゃあせめて書き出しだけでも全部読もう。と思い本棚の前にどっかりと座り一冊抜いては読み、戻し、一冊抜いては読み、戻し、とするうちに独自のリズムが形成され、頭の中がサーッとしてきて謎の爽快感があり、読書らしい読書ではないにせよ独特の面白さが創出され気分がよい。1時間30分かけて未読書の書き出し又は数ページを読み終えてふと気づいた。2ページ以上読めている。読書の集中力が1時間30分持続しているという事実。なんなのかしらと考えてみるに、本の冒頭というのは基本的に作家も読者の興味をつかむために力を入れているはずであるから、きちんと面白いように出来ているわけで、その部分だけを読むということはある意味で、いちごの細くて赤くて甘い部分だけを食ってあとは捨ててるみたいな贅沢で背徳で傲慢な味わいかたであるように思われたのだけれど、いちごは本当に甘い部分だけ食って捨てる人がいるけれど、読書は冒頭だけ読んで本を捨てる人などいないし何度でも読めるしぼくも本を捨てるつもりがないから、もはやこれはこれで正しいということにしようと自分の中で決まった。そうしてたくさんの書きだし又は数ページを読んだけれど何一つ覚えていない。それはそれでよいように思う。なぜ本を読むのかと自らに問うてみると知識とか読んだ証とかが欲しいわけではなく読みたいから読むのであって読みたくない時には読まなくていいのは当然のことだった。最近読書が出来なくなってきたのは読書に飽きてきたからだと書いたけれどよく思い出してみるとぼくは昔から読書が好きでもなかったような気がしてきた。読書を好きになろう、読書を習慣にしようと思ってから実際に習慣にした、あの瞬間の未曽有の自己暗示が今になって解けただけなんではないだろうか。そう考えるとだんだん読書が嫌いになってきた。ぼくはもう読書が嫌いになった。嫌いなら嫌いでいいとわかった。たぶん読書を嫌いになることをぼくは恐れていたんだな。だから一回きちんと嫌いになろう。もう充分だ。今までありがとう。ぼくの家から出ていってくれ。読書はぼくのアイデンティティのためにあるわけではない。読書は読書で好きに生きればいい。たとえ明日ぼくが死ぬとしても読書のことは忘れないけど読書のことを好きだったぼくが死ぬわけではないから読書はそのままの読書を愛してくれる人のもとで生き生きと生きるがいい、たとえ読書が死なないとしても。